東アジア歴史文化研究会のブログ

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宮脇淳子氏講演レジュメ「真実の満洲史を語る―満洲国とはいったい何であったのか」

東アジア歴史文化研究会
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4月16日、宮脇淳子氏に「真実の満洲史を語る―満洲国とはいったい何であったのか」のテーマで力強く語っていただいた。一貫して中国、韓国の歴史観に騙されるな。特に中国(シナ)は歴代易姓革命によって徳が失われた前王朝を否定し、天命があることを主張し、自分たちに都合がいいように勝手に歴史をつくってきた。だからいまの中華人民共和国にとって中華民国も日本も戦争に負けたのだから100%悪く、そのような中国(シナ)の歴史は自らを正当化する歴史認識に貫かれている。ほとんど主張していることの反対が真実だといっても過言ではない。いままでは自虐史観の影響もあり、間違っていてもそのまま受け入れてきた。しかし、これからは我々日本人はもっと真摯に歴史の真実を学んで堂々と弁証しなければならないと・・・!。胸がスカッとする内容でもあった。その迫力をお伝えできないのは残念だが、せめてもレジュメを読んでいただきたいと思う。

『真実の満州史』(ビジネス社)がいよいよ4月24日に発売されます。この中に研究の成果がすべてが結集しているとのこと、ぜひ購入してお読みいただきたい。
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真実の満洲史を語る―満洲国とはいったい何であったのか

第96回東アジア歴史文化研究会 新宿常円寺 2013年4月16日
東洋史家・学術博士 宮脇淳子


1 結果がすべての中国の歴史観
シナ文明における最初の歴史書、司馬遷(しばせん)『史記』(紀元前104~97年)は、皇帝が「天下」(世界)を統治する権限は「天命」(最高神の命令)によって与えられたもので、天命が伝わる順序を「正統」とした。この後『明史』まで書きつがれた二十四の「正史」は、なぜ前の王朝が天命を失い、現王朝が天命を得たのかを書くものなので、王朝の最初の皇帝は必ず徳があり、滅びる時の皇帝は愚鈍か病弱か淫乱か残酷だと書く。なぜなら天命を失った理由が必要だからである。だから今統治している中国の言うことはすべて正義で、日本は戦争に負けたのだから、すべて悪だと言う。

2 「春秋の筆法」の意味
孔子がBC480年頃に編纂したことになっている『春秋』は240年間の年表であるが、後世に別の人が『春秋三傳』(『左氏傳(さしでん)』、『公羊傳(くようでん)』、『穀梁傳(こくりょうでん)』)という注釈書を書き、起こったことを善悪で解釈した。それで孟子が「孔子が『春秋』をつくったので、乱臣や賊がこれを恐れた」と言い、「誰が極悪人か、それとも尊皇かを、後世の人間が厳しく査定する」という意味になった。善悪はおのずから歴史が証明するというが、これもまったくの結果論である。かつての満洲国の領土は、現在、中華人民共和国の国土であるから、太古までさかのぼって中国である、と主張する。

3 清朝(1636-1912)は、五大種族の同君連合帝国
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清朝は、万里の長城の北で建国され、満洲人、モンゴル人、漢人、チベット人、イスラム教徒の五大種族の同君連合帝国だった。モンゴルとチベットと回部は藩部(はんぶ)と呼ばれ、自治を許されて漢人の移住は禁止されていた。彼らは種族ごとに宗教も言葉も法律も違い、満洲語が共通語だった。
ところが1840年のアヘン戦争で英国に敗れたあと、
1851~64年の太平天国の乱で南方が乱れ、1865~77年イスラム教徒が反乱を起こした。1884年に清朝は藩部自治の原則を破って新疆省を設置し、漢人に行政を担当させる。台湾が省になったのは翌1885年である。

4 「満洲」は17世紀に種族名として誕生した
1559年 ヌルハチ(清の太祖と諡(おくりな)される)がジュシェン(女(じょ)直(ちょく)、女真(じょしん))部族に生まれる。
1588年 建州女(けんしゅうじょ)直(ちょく)を統一したヌルハチが、これを「マンジュ・グルン(国)」と称した。
1635年 ヌルハチの子ホンタイジ(清の太宗)が種族名ジュシェンを禁止し、マンジュと改名。
1636年 ホンタイジが、瀋陽にマンジュ人、漠南のモンゴル人、遼河デルタの漢人を集め、大清国皇帝に推戴される。この種族名の「マンジュ」を漢字で「満洲」と写した。「満州」ではない。
*俗説に「満洲とは、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)のマンジュシリから出た」とあるが、嘘である。ただし後にチベットのダライ・ラマ政権が「マンジュというからには清朝皇帝は文殊菩薩の化身」と追従した。

5 「満洲」が地名になったのは、日本人のせい
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「満洲」が地名になったのは、1809年の「日本辺界略図」(高橋景(かげ)保(やす))のせいである。地図の「満洲」は1689年のネルチンスク条約で合意された露清国境以南の清国領、今日のロシア極東、沿海州を含む。この「日本辺界略図」がシーボルトによってヨーロッパに持ち帰られ、『ニッポン』という彼の著書の中で翻訳され、1832年にオランダで刊行された。

6 日露戦争までの満洲
1740年清朝は漢人の満洲への移住を禁止する封(ふう)禁令(きんれい)を出したが、18世紀末頃から山東や河北から貧民が流入、掘立小屋を造り荒れ地を開墾し村落を形成した。続いて河北や山西から商人が進出、焼酎製造業者が穀物の売買や高利貸しなど金融面でも活躍するようになる。19世紀後半から漢人移民が増えたが、1907年まで満洲は軍政下にある特別行政区域で、斉斉哈(チチハ)爾(ル)の黒龍江将軍、吉林の寧(ニン)古塔(グタ)将軍、盛(せい)京(けい)(瀋陽)の奉天将軍という、満洲旗人出身の三将軍が治める地域だった。

7 ロシアの満洲占領
1858年愛琿条約でロシアは黒龍江左岸を清から獲得、1860年北京条約で今の沿海州を奪った。日本と欧州で地名となっていた「満洲=マンチュリア」はこのあとロシア領が抜けて縮小する。
1894-95年の日清戦争後、日本に対する三国干渉で清に還付させた遼東半島南端をロシアが租借。
1896年ロシアは満洲里(まんしゅうり)から沿海州に至る東清鉄道敷設権を獲得(李鴻章(りこうしょう)に賄賂300ルーブル)。
1897年ロシアが東清鉄道を敷設し始めると、土地の強制収奪に反対する農民の自営組織と、鉄道建設によって生活の糧を奪われる運送業者がロシアに対するゲリラ戦を展開、1899年には義和団運動と連動。ロシアの陸軍大臣クロパトキンがウィッテに「これで満洲をおさえる口実ができた」。東清鉄道の保護を謳(うた)った17万7千人のロシア軍が満洲に侵攻、清国人を虐殺して全土を占領。

8 日露講和条約でロシアから関東州と満鉄を譲り受ける
1904-5年の日露戦争の際、清国政府は自国領の満洲で戦われているのに、「局外中立」を宣言。
1905年 9月日露講和条約(ポーツマス条約)調印、日本は韓国の保護権、南樺太、遼東半島、東清鉄道南満洲支線(南満洲鉄道)の経営権、沿海州の漁業権を獲得した。12月満洲に関する日清条約を調印、ロシアから日本に譲渡された権利を清が確認する。
1906年 8月遼東半島の租借地に日本が関東都督府を設置、11月満鉄(半官半民会社)誕生。
1907年 清朝が軍政を放棄、満洲に初めて東三省総督(そうとく)を置き、奉天、吉林、黒龍江に巡撫(じゅんぶ)を置く。これが1912年に成立した中華民国、1949年成立の中華人民共和国の言う「中国東北部」の起源。

9 満鉄(南満洲鉄道株式会社)誕生
満鉄の「日本政府出資の1億円」は、ロシアから譲渡された鉄道そのものと撫(ぶ)順(じゅん)と煙(えん)台(だい)の炭坑、あとの1億円は国民が購入した株(9月に行われた満鉄の株式募集の倍率は一千倍)。のちロンドンで社債を発行、2億円を調達(1906年の日本国家予算4億余円、日露戦争中の臨時軍事費17億余円、戦争関係費用併せて20億円近く、英米市場で調達した外債は10億円を超えていた)。
満鉄の事業は、長春郊外から大連間の鉄道、軽便鉄道の安奉線(日露戦争中に物資輸送のため朝鮮国境の安東と奉天間に建設)、付属地の経営、炭鉱開発、製鉄業、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル、航空会社。さらに大連、奉天、長春(新京)の近代的都市計画を進め、上下水道、電力、ガス、港湾、学校、病院、図書館設立。その後、大連汽船、大連電気鉄道、満洲電気株式会社と南満洲瓦斯株式会社も設立。後藤新平は総裁を引き受ける条件として、日本政府職員が在官のまま満鉄社員になることを挙げ、246人の日本政府官吏が入社、1907年の正社員の8.3%に相当。

10 満洲の日本人
1905年 奉天に民間日本人50人。翌年3月1500人(料理屋、遊技場、雑貨商、酌婦、芸妓)。
1907年 ハルビン領事館開設、在住日本人600人。日露戦争後に満洲に来た日本人は、関東都督府官吏、満鉄社員がほとんどで、民間の大半は在住日本人を相手に暮らす人たちだった。
1910年代 満鉄の日本人社員1~2万人、関東都督府3421~6331(26年)人、領事館数百人。
1915年 二十一カ条要求が調印されると、日本人は南満洲において自由な居住が認められ、農業や商工業に使う土地の「商租」が認められた。1921年には在満日本人は16万6千人に。
1926年 在満日本人19万人のうち、満鉄社員とその家族6万8千人、関東庁2万2千人。
1932年 満洲国建国時の人口3400万人(漢人83%、満洲・モンゴル15%、日本・朝鮮2%)
1941年 4300万人。日本人は1932年関東州を含めて24万人、1945年軍人以外に155万人。

11 ロシア革命(1917年)で、満洲は中国だと主張するナショナリズム誕生
1919年 3月世界同時革命組織コミンテルン結成、5月中国で反日学生運動の五・四運動。
1924年 孫文による第一次国共合作「連(れん)俄(が)(ソ連と提携)・容共(ようきょう)(共産党員の加入)・扶助農工」
1926年 蒋介石を総司令官とする10万の国民軍が、北洋軍閥打倒戦争=北伐を開始する。
1928年 6月張作霖(ちょうさくりん)が満洲に戻る途中で爆死、蒋介石北京入城、張学良(ちょうがくりょう)が北伐軍と講和する。
1931年 2月鮮人(せんじん)駆逐令(くちくれい)、7月万(まん)宝山(ぽうざん)事件、中村中尉暗殺事件等、満洲で排日運動が激化。

12 満洲国の成立
1931年9月柳条湖事件により、日本の関東軍が満洲事変を引き起こして満洲を占領する。
1932年3月1日張景(ちょうけい)恵(けい)が委員長をつとめ、臧式(ぞうしき)毅(き)、熙洽(きこう)、馬(ば)占山(せんざん)の四巨頭と、熱河省の湯玉麟(とうぎょくりん)、内モンゴル哲里木(ジェリム)盟長の斎黙特色木丕勒(チメトセムビル)、ホロンブイル副都統の凌陞(リンシェン)を委員とする東北行政委員会が満洲国の建国を宣言。溥儀(ふぎ)が執政、国体は民本主義、国旗は新五色旗、元号は大同、「王道楽土」と「五族(漢民族、満洲民族、朝鮮民族、蒙古民族、日本民族)協和」を目指す。9月15日日本が満洲国を承認し、日満議定書に調印する。10月2日リットン報告書が公表される。
1934年3月1日溥儀が皇帝となる。満洲帝国の成立(当時世界60カ国のうち20カ国が承認)。
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13 十三年半の満洲国とその後の満洲
経済建設の第一期(1933~36年)は満鉄を通じて、治安維持、国家機構の整備、基礎産業および輸送通信機構を整備。第二期(1937~41年)は第一次産業五カ年計画で日産財閥が進出、満業と名を変えて重工業を育成。第三期(1942~45)は日満華一体として鉄鋼の他、石炭と農産物に重点。日本人は現地の教育制度の充実と、映画・オーケストラ・博物館・図書館など大衆文化の隆盛に力をつくす。国民に神道を強制したことはなく、民族によって様々な宗教が信仰されていた。
1941年 12月大東亜戦争始まる(敗戦後、アメリカの占領下で「太平洋戦争」となる)。
1945年 8月9日174万のソ連軍が一斉に満洲に侵攻、8月18日満洲帝国皇帝退位、19日ソ満国境で日ソ停戦交渉、関東軍武装解除。23日スターリンが日本軍捕虜50万のソ連移送を命令。
1946年 国共内戦が始まり満洲各地が戦場に。12月ソ連の日本人抑留者に関する米ソ協定成立。
1949年 10月1日中華人民共和国成立。毛沢東が中央人民政府主席となる。
1950年 6月朝鮮戦争が勃発する(1953年7月朝鮮戦争の停戦協定が調印される)。
1951年 ソ連が大連港を中華人民共和国に引き渡す。
1956年 12月ソ連からの最後の引揚船が舞鶴に入港、60万~70万人のうち6万人が死亡。