日本こそ持続可能な世界の手本だ(加瀬英明のコラム)

新年に入ってからコロナウィルスの感染が大きく拡がって、政府を浮き足だたせている。
私はキリスト教の『旧約聖書』(ユダヤ教の唯一つの聖書)が、神が人を創られると、最初の命令として「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」(創世記)と命じているのを、思い出した。
聖書に記されていないが、コロナウィルスも同じ神意を授かっているにちがいない。
ウィルスも人も、変わらないのだろう。
さまざまな学会誌が手元に送られてくるが、コロナウィルスのお蔭で自宅で過ごす時間が増えたので、ふだん忙しさに紛れて読まない論文に目を通した。はやりの先端をゆく地球環境を維持しようという、SDGs(持続可能な開発計画)を扱ったものが多かった。
幼いころから動物が好きだった
SDGsを論じたなかに、「人口、人工物、物質の飽和」を難じる論文があった。
わが家に猫が2匹同居している。この論文を読み終えて、私は同居している猫に敬意を深めた。
猫は自分が必要なだけ消費して、物質の飽和をつくることがない。寝食を忘れて、ミサイルや核兵器の開発に没頭しない。正義や道徳を翳して、同類を大量殺戮することがない。私たちが猫から学べることは多いが、猫が人から学べることは1つもない。
私は幼いころから、動物好きだった。そこで長じてから、仏教の畜生道は前世において悪行を働いた人間が、この世に禽獣や、虫、魚になって生まれてくるのだが、悪事を働いた動物が罰として、人間に生まれ変わるにちがいないと思うようになった。
自然とは血がつながっている
北海道帯広で、広いフラワーガーデンの紫竹ガーデンを経営している92歳になるS婦人から、30年振りに手紙を貰った。私から30年前に受け取った返事の手紙を、いまでも宝のように大切にしている、ということだった。
私は紫竹ガーデンを訪れたことがないので、ネットで検索したら、百花繚乱の敷地に、洒落(しゃれ)た明るい花柄のブラウスを着た「紫竹ばあちゃん」こと、S婦人の写真が添えられていた。
まだ、お目に掛かったことがないが、急いで返事を認めた。
「30年ぶりにお手紙を頂戴し、コロナ騒ぎで国民とともに気落ちしていたところに、光明がさしたように嬉しい便りが運ばれてきました。
さっそくネットで紫竹ガーデンを拝見しましたが、ご麗姿のまるで花の精のような写真に見とれました。ブラウスもよくお似合いで、お人柄が濡んでいました。
私は花が大好きで、きっと前世は蜜蜂か、南アメリカに棲んで花蜜を吸う蜂鳥の生れかわりかと思っています。万葉集に、令和の御代の出典となった梅を讃えた歌の大伴家持の父親の大伴旅人(たびと)の『この世にし楽しくあらば来む世には 虫に鳥にも我はなりなむ』という句がでてきますが、もし、つぎに虫として生まれたら、紫竹ガーデンに住むことをお許しいただきたいと思います。
3年前に最後に北海道を訪れましたが、旭川から1時間あまりの納内(おさむない)町の屯田兵が創建した納内神社の150年祭に、神道について記念講演を頼まれて、夫婦で招かれました。帯広には1980年、83年、91年、99年の4回、講演のため に訪れています。
お言葉に甘えて、コロナ禍が収束したら、旧婚旅行に紫竹ガーデンにお伺いしたいと願っています。
お元気で、よい年をお迎え下さい
人は神から自然を支配するように命じられたのに、あきらかに失敗している。
『創世記』は神の言葉として、人に「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と述べている。人間至上主義であるが、西洋による帝国主義が世界を風靡した時代の白人至上主義を思わせる。
工業化がはじまってから、自然と縁が薄くなった。自然とつづきあい、ゆかりというか、血のつながりがなくなった。
高度科学技術文明は理に適っていない
鉄道が登場してから、人は自然の時間によってゆったりと生きていたのに、分刻みの時間によって支配されるようになったにちがいない。
私が幼かったころは、雨があがると土の臭いや、草の香りに足を停めたのに、今では誰もが急いでいるから、そのような醍醐味を味わえなくなった。サラリーマンや、経営者のための能力開発の雑誌や本が、人間力という言葉を使っているが、人間の能力が嗅覚を弱めて退化している。
科学が暴走した高度科学技術文明は、理に適っていない。自然と人との釣り合いを壊したから、合理的でない。
地上の生物のなかで、人間だけがペットをもっているのはなぜなのだろうか。前世の淡い記憶が残っているのだろうか。ペットによって癒されるというのは、きっと教えられるからなのだろう。
江戸時代は循環型経済を営んでいた
SDGsは人が自然から収奪したものを、自然の手へ戻そうとするものだろう。
水のようにひとまわりして元の場所にかえり、それを繰り返す循環型経済をつくることを目指すものだろう。私は転生を信じないが、栗鼠やムササビや、鳥やミズスマシになったことを想像するのは、悪いことではない。
世界は江戸時代の日本と、日本の精神文化を手本(モデル)とするべきだ。江戸時代の日本は庶民が世界のなかで、もっとも恵まれた社会を形成していたが、資源を浪費することがなく、循環型経済を営んでいた。
明治に入るまでの日本語には、3、4000年以上にわたって、人対ネイチャーという奇妙な発想がなかったので、「ネイチャー」に当たる言葉がなかった。この西洋語を訳すために、自然(じねん)に仏教の教えによらず開悟する「自然(じねん)悟道」、因縁によらず自然(じねん)に生じる「自然(じねん)外道」を無理に借りて、「自然(しぜん)」という新しい訳語を造った。
自然と共に歩んできた
ネイチャーとともに、キリスト教の「愛」という選別的な、なじめない言葉が入ってきた。私たちはすべて和によって、包容してきた。猫さん、雀さん、蝉さん、カマキリさん、金魚さんというように、あらゆる存在が仲間だから「さん」をつけるが、日本にだけみられる。和こそが、サステナビリティ――持続の鍵なのだ。
『鬼滅の刃』が大きな話題を呼んだが、英字紙が「Devil Slayer」(悪魔退治)と、鬼を悪魔と誤訳していた。もっとも、他に訳しようがないのだろう。
日本では何であれ、悪と決めつけることがない。私は幼い時に「鬼ごっこ」を楽しんだし、秋田県の「生剥(なまはげ)」では、鬼面をかぶった青年たちが家々を訪れて饗応を受け、祝言を述べて悪霊を払う祝福神を演じる。
文明開化は手段だったのに目的になった
明治以後の文明開化は手段であったはずなのに、西洋に気触(かぶ)れるうちに、いつのまにか目的となってしまった。
中国では習近平主席を「小熊維尼(シャオションウエニ)」(くまのプーさん)と呼ぶと、ただちにネットから削除されるか、検束される。習主席の腹が脹れていて、中国の若者にも人気があるプーさんの縫包みに似ていることから、始まっている。
ウィニー・ザ・プー(くまのプーさん)はイギリスの童話の主人公で、私の幼な友達でもあるが、英語圏で愛されている。習主席が英語圏を訪問した時に、「私はプーさんだ」といったら親しまれたのに、蝙蝠も、センザンコウも動物は食材であって、中国に服(まつ)ろわぬ民族を呼ぶのに獣偏をつけてきた。
“習大大(ターター)”(誰よりも偉い人)の共産中国は、ヤクザの集団だ。ヤクザははじめから理を無視している。
日本を持続するために、国防体制を強化することが急務だ。
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