東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

『地形と水脈で読み解く! 新しい日本史』竹内公太郎著(宝島社新書) 古事記、日本書紀に描かれた国造、国府、一宮はなぜ高台にあったか 縄文遺跡も貝塚もなぜか段丘に位置した。現代人に当時の地誌は理解不能か

東アジア歴史文化研究会

本書は古代史の謎を解く二つの重大要因を指摘する。

第一は、古代に襲われた津波に縄文、弥生人はいかに対応したか。第二に、ヤマト王権はなぜ奈良盆地の南西部から南部、そして山辺の道を北上し、奈良の都へと到ったか。歴史学、考古学が説けなかった謎を地形エンジニアが解き明かした。

三内丸山遺跡、長者原遺蹟、上野原遺蹟など縄文時代を代表する集落跡は段丘にある。だから現代日本では山奥の辺地となってしまい、工業団地の造成工事とか、鉄道、道路の新設工事でブルドーザが発見する。

縄文海進で海面があがり始めたのは6500年前から6000年前にかけてである。したがって、文明の拠点も海辺から高いところへ移動する。

貝塚はどうかと言えば、やはり海辺ではなく、すこし高台から発見されることが多い。飛鳥山貝塚、賀曽利貝塚などは丘にある。工房跡か加工道具は、付近の地質の測定で年代がほぼ特定された。

評者(宮崎)は、天皇制の原形が縄文中期にあったと見立てての拙著『神武天皇「以前」』(育鵬社)を上梓したが、その取材で各地の縄文、弥生遺蹟を訪ね歩き、直近では『日本のパワー・スポットを往く』(海竜社)の取材行で、神話の描いた国府、国造、一宮(神社)、国分寺跡などの立体的な地図を現場で確認した。

弥生式集落跡となると登呂遺跡、吉野ヶ里など、代表的なものは平野部のやや高所にある。場所によっては地形の変形が激甚な場所があって、越中の国府跡、越後の国造、越前の二宮などへ行くと、海岸を見下ろせる高台に位置する。

越後の一宮跡は現在平地のヌナカワ神社(糸魚川)だが、当該神社由来によれば、昔、山のほうにあって、海岸近くの平野に移転したのだという。

吉野ヶ里に匹敵する大発見は平塚川添遺蹟だ。

福岡県で平成2年(1990)、工業団地を造成中に発見された。およそ17ヘクタールの広さの土地に環濠集落、竪穴式住居跡は300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認された。環濠集落の中央部に「中央集落」があり、その外縁に小集落跡。木器、玉製造工房の跡などが出土した。土器、銅矛・銅鏃・鏡片などの青銅製や農具・建築部材・漁具などの木製品も発掘された。

竪穴式住居、木の桁橋(けたばし)、穀物倉庫と思われる高床式倉庫、「祭殿」、集会所(首長館)などを復元し、集落を多重に囲む「環濠」には水を入れ、この大規模な弥生式集落跡(「平塚川添遺跡」)は平野部にあって、平塚川添遺跡公園となって公開されている。

本書の著者は土木建築の専門家である。

次のような衝撃的な事実を指摘されている。

「東日本大震災の津波では、岩手県の三陸海岸から茨城県のいわき地方の海岸まで、広範囲に人的被害を出している。この海岸沿いの、直線距離にして約400キロメートルの範囲には、縄文時代の貝塚集落が約480ヶ所確認されている。この貝塚集落の遺跡について、津波被害の有無を確認・検討した結果、驚くことに、どれも東日本大震災の津波の到達範囲よりも?地に位置していて、ほとんど被害に遭っていないことが確認された」

つまり縄文人は津波を避ける土地に集落を構築する智慧があったのだ。

縄文早期の集落は標高15メートル、中期から後期には標高20〜24メートル。晩期になった海水準が下降したことに併せ、数メートル低い場所へ移動していることが分かる。

奈良盆地に関して、ヤマト王権は「奈良湖」の埋立と開墾から始めたと著者は言う。

奈良盆地の南西部(葛城、ナガスネヒコ拠点)から南部(飛鳥、神武天皇即位は畝傍山山麓)、そしてヤマト王権が歴代、宮を置いた「山辺の道」を板葺宮、初瀬宮、藤原京と徐々に北上し、奈良の都へと到った。

つまり奈良盆地のまんなかが奈良湖だったのだ。

その周辺に豪族が分散していた。湖が徐々に干しあがり、やがて湿地帯となった。それを豪族達が競って埋立て、開墾した。

蘇我氏の勃興は、埋立と開拓で台頭したと著者は言う。かくして歴史学、考古学が説けなかった謎を地形エンジニアが解き明かした。

奈良湖の周囲を南西部から、葛城、巨勢、羽田、蘇我、阿部、大伴、物部、和耳(わに)と近畿豪族が守備範囲を持っていた。

初期のヤマト王権は、これら豪族の連立政権であったとする評者の推理の基盤も、この地形でわかる。

本書は地形と水脈の研究比較から縄文にあたらし焦点を充てた異色作である。