『刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機』関幸彦著(中公新書) 対馬壱岐から1289人を連れ去った刀伊(女真族)の海賊 シナの奴隷市場で売る目的、牛馬380頭も食い尽くして去った

刀伊の入寇と冠した歴史書は、おそらく初めてではないか。歴史通でも、この事件を知っている読書人は少ない。
凶暴な海賊が大挙しての襲来。この前段は新羅船の来襲事件だった。寛平六年(894)九月、新羅の海賊四十五艘が対馬に来襲した。
日本側は直ちに防衛態勢を固めて海賊を撃退し、射殺三百余。敵大将三名を捕虜とした。新羅は飢饉に襲われたため国王命令で穀物と衣類を奪う目的だったことがわかった。
その記憶がまだ新しかった。
新羅海賊の急襲から百二十年ほど後、寛仁三年(1019年)、都は飢饉、疫病で治安が悪化し、盗賊が放火し、追いはぎも多く、京は荒れていた。
藤原道長を叔父とする藤原隆家が、この時期に大宰府に赴任する。
『刀伊ノモノ五十余艘、対馬島に来着、殺人、放火』の報が飛び込んできた。
海賊のなかでも凶暴で獰猛、対馬と壱岐を襲い、住民を殺戮、農作物からなにか何まで盗み出したうえ、おもに壮年男子の島民を大量に拉致した。不意の来襲に防衛態勢が間に合わず、被害は甚大だった。
白村江戸の敗戦いらい、日本側の防衛努力があって、固めてきた防衛態勢と兵のネットワークが機能し、海賊どもを押し返した。
対馬と壱岐から1289人を連れ去った女真族の海賊の目的は、シナの奴隷市場で捕虜たちを売ることだった。牛馬380頭も食い尽くして去った。歴史教科書でも一行ほど教えるのだが、平安時代の大事件である。
撃退に際して日本側は鏑矢を用いた。これは「鏑穴の音響で相手を射すくめ、威嚇する効果があった。その「鳴鏑」の音が刀伊軍の撃退に図らずも機能した」のだが、現場の指導者・藤原隆家が地元の有力武者を率い、「迎撃でという受動的防衛ではなく、積極的攻撃姿勢が功を奏した」(81p)
刀伊とはtoi、朝鮮語で「東夷」を意味し、正体は女真族海賊である。八世紀に佐渡に漂着した粛清人(みしはせ)も、阿倍比羅夫が追っ払ったが、ツングース系で、女真族ではなかったかと言われた。
来襲されると、住民らは寺社へ祈願をなした。
「異国凶賊、鎮西ニ着スルノ事ニヨリ、諸社ニ御幣使ヲ立テラレル(『小右伝』、寛仁三年四月二十一日条)。
「神仏への祈願は内外の危機にあっては常のことだった」と著者は言う。
大宰府の官吏らは「新羅の海賊」と判断したのも九世紀の前例を思い出したからだ。
しかし日本側の迎撃、追撃には重要な軍律があった。
「追撃については対馬、壱岐に至るところまでとし、日本の領域に限り襲撃するように、新羅との境に入ってはならない」とする軍令を出したことは注目されてよい。まさに、専守防衛の起源である。
新羅はすでに滅びており、朝鮮半島は「高麗」となっていたが、その領海、元山沖で海賊集団の帰路に待機していたのは高麗軍だった。高麗は日本と敵対関係にあったが、半島ならびにシナの政治事情から、ここで日本との関係改善を急いでいた政治動機があった。
高麗軍が女真族海賊を迎撃し、勝った。日本人捕虜のうち、生き残った270名を救出し、日本に送り届けてきたのだ(『高麗史』では男女259名。海賊船8艘を捕獲)。
日本人捕虜を救出、しかも本国送還という「人道的行為」は額面通り受け取るべきか、高麗使節団を対馬から大宰府へ招くかどうかで議論があった。
第一に高麗使には絹、コメを供与し、帰国させる。なぜなら、これは高麗の陰謀ではないかという疑惑。さらに上陸させると、日本の内情探査が排除できないため、土産をもたせてさっさと返せと廟議はもめたという。
第二にもし高麗使が長期滞在となると、日本の国力の脆弱さが潜在敵性国家に把握されるという懸念があった。
これらを総括した著者は「大陸半島に対する軍事的脅威と劣等感」だとし、神功皇后の新羅征伐は「自己優位の外交の幻想」と批判する。
白村江は確かに「敗戦」だが、それは局地戦であり、王族並びに百済の技能集団2400名を連れ帰っている。
白村江の敗戦以後、日本は強力な防衛網を拡げ、城を築き、体制を固めたが、むしろ日本のご機嫌伺いに、白村江以後、何回となく朝貢をくりかえしてきたのは新羅だった。新羅は、日本の報復を恐れていたのである。
つまり評者(宮崎)に言わせれば、白村江は局地戦では負けたが、全体的は五分五分であり、新羅は日本が必ず捲土重来を期して来襲すると懼れていた。
あべこべに日本は防人を配置し、防衛態勢を固め、太宰府に水城を造り、筑紫各地には防塁を築いて、あまつさえ近江に遷都までしていた。
その西国の防人たちの疲弊と不満の爆発が、天武天皇のクーデター(壬申の乱)で天智天皇の皇子、大友皇子を守る意思がなかったことに繋がった。そのうえ大友皇子の母親は采女だったため、血筋正しき天武天皇が勝つことを望んでいたのである。
当時の北東アジアの地政学では、高麗(新羅の後継)にとっては鴨緑江を挟んで北に女真、契丹の脅威があり、これ以上に南の脅威である日本とは敵対関係を続けるのは得策ではなかった。そうした時代背景があった。
日本の保守思想がいかんなく発揮されて時代でもあった。
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目次(「BOOK」データベースより)
序章 海の日本史(異国文字の謎;女真文字の解明に向けて ほか)
第1章 女真・高麗、そして日本(東アジア地域の諸相;日本国の内と外 ほか)
第2章 刀伊来襲の衝撃(王朝の栄華と不安;刀伊来襲の予兆 ほか)
第3章 外交の危機と王朝武者(武力動員の特質;「ヤムゴトナキ武者」たちの来歴 ほか)
第4章 異賊侵攻の諸相(囚われ人の声を聞く;海禁と異域観 ほか)
関幸彦 1952年生まれ。学習院大学大学院博士課程満期退学。鶴見大学教授などを経て、現在、日本大学教授。専門分野は日本中世史。『英雄伝説の日本史』『武士の誕生』『鎌倉殿誕生』『その後の東国武士団』『敗者たちの中世争乱』など著書多数。
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