東アジア歴史文化研究会のブログ

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【「どうする家康」外伝⑦】死の1カ月前に「遺言4カ条」 死因は「天ぷら」ではなくがん「健康オタク」の徳川家康も病勢には勝てず…享年75

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家康が晩年、居城とした駿府城。「大御所政治」は影響力を発揮した=静岡市

しかし、淀殿と豊臣秀頼の存在がどうしても目の上のこぶだった。それ故、幕府開府から10年以上もたった1614年冬と翌年夏、2度にわたって大坂城を攻め、ついに豊臣家を滅ぼした。

家康は感無量である。既述の様に、かつて今川義元が織田信長に惨殺されたとき、家康は自分も追い腹をと、故郷・三河にある三河松平の菩提寺・大樹寺に赴き、その決意を登誉上人に話した。

しかし、その場で上人から、「あなたには、戦(いくさ)も穢(けが)れもない、浄土のような世界を作る使命がある。だから生きよ」と諭された日のことが思い出されたからである。「登誉上人が仰った『争いのない世界』というのはこういう景色だったのか」という思いである。

「向後、自分の力で戦は起こさせない」―そう強く思った家康は元号を変えた。慶長から「元和」。「元ははじめ。和は平和」。

次に、家康は自分の存在を少しでもいいかたちで後世に残そうと考えた。「権謀術数に長けた、たぬき親父」というイメージからの脱却である。

もともと、読書好きであった家康は、ニュー家康を「インテリ家康」と定めた。近隣の外国とは善隣友好姿勢、政治の模範となる君臣の言行を集めた中国の本の翻訳命令を出したり、「源氏物語」を公家衆に配ったり、子や孫には自分の持っている本を惜しみなく配ったり…。

そんなこんなで、元和2(1616)年の1月中旬。家康は趣味の鷹狩りに出た。場所は駿府城にほど近い田中という場所。鷹狩りの後、家康は駿府城には戻らずに、その田中城で、ある人物と夕食を摂った。駿府城に近いのに、なぜ戻らなかったかは分からない。きっと、朱印船貿易などの秘密の会話があったのかもしれない。

その客人の名は当代一の豪商、家康の経済ブレーン、蛸薬師の呉服商で、茶屋四郎次郎清次(=初代の清延は、本能寺の変の一報を早馬で知らせた男である)。この夜の食事に、カヤの油で揚げた鯛の天ぷらが出た。食事の後、家康は腹痛を訴え、その日はそのまま田中城に泊まった。「あれはうまかったが、ちと食いすぎたな」と、後日漏らしたという。

昨今、死因はがんで、「天ぷらではない」とも言われているが、いずれにせよ、「健康オタク」だった家康も病勢には勝てなかった。

死を意識し始めた同年3月、側近を集め遺言4カ条を残す。①遺体は久能山に②葬儀は増上寺で③位牌(いはい)は大樹寺に④1周忌ののち、日光に小堂を建てて勧請(かんじょう=神仏の来臨を願うこと)すべきこと。

元和2年4月17日。徳川家康、死去。享年75。 =おわり

まつだいら・さだとも 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」などを担当。理事待遇アナウンサー。2007年に退職。現在、京都芸術大学教授などを務める。著書に『幕末維新を「本当に」動かした10人』(小学館101新書)、『一城一話55の物語』(講談社ビーシー)など多数。現在、アマゾンのオーディオブック「Audible(オーディブル)」で、北方謙三著「水滸伝シリーズ」(集英社刊、全19巻)の朗読作品を配信中。