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宮脇淳子氏講演レジュメ後編「真実の朝鮮史②-日本統治時代がなかったら今の韓国はなかった」

東アジア歴史文化研究会

後編「真実の朝鮮史②―日本統治時代がなければ今の韓国はなかった」

第110回東アジア歴史文化研究会 常円寺 2014年10月1日
東洋史家・東京外国語大学講師 宮脇淳子氏

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1 なぜ韓国人は日本を目の敵にするのか?

1)Koreanのナショナリズムは、1910年の日韓併合のあとで生まれたから、反日が国是。
2)1919年の三・一運動は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの「民族自決」と、1917年に始まるロシア革命の「世界同時革命」思想に影響された。
3)朝鮮半島だけで歴史が成り立った時代は一度もなく、つねにその領域も支配層も入れ替わった。朝鮮半島は「場」Theaterではあっても「主体」Actorではなかった。
5)その時々に最も強い方の属下に入る(事大主義)ことで生存を図ってきたので、日本の敗戦によって、日本を見限った(それまでは喜んで日本を後ろ盾にしていた)。
6)日本の敗戦までは日本国民だったので日本と戦った歴史はないが、戦勝国側に立つことで生き残りを図った。韓国は日本から独立したのではなく、1948年に米占領下で建国。
7)韓国は独立戦争で勝ち取られた国ではないため、国家の正当性がない。それで、嘘の「歴史認識」を捏造して自らをだまし続け、日本にもそれを認めさせようとやっきになる。


2 日露戦争にいたる日本と朝鮮半島の関係(復習)

1871年 日清修好条規調印。7世紀末日本国が誕生してから初めてシナ政権と正式な条約。
1873年 朝鮮王高宗(こうそう)の父の興宣大院君が追放され、高宗の王妃の閔妃が実権を握る。
1875年 日本海軍の測量船雲揚号が朝鮮の江華島から砲撃を受けて応戦、砲台を一時占拠。
1876年 日本が日鮮修好条規(江華島条約)を朝鮮と結び、清の宗主権を否定する。
1880年 日本は朝鮮の首都ソウルに公使館開設(1888年 朝鮮が東京に公使館を開設)。
1882年 大院君の扇動で抗日暴動がソウルで発生、日本公使館が襲撃される(壬午事変)。清は軍を派遣してソウルを占領、日本は謝罪使の派遣と駐兵権を認めさせた(済物浦条約)。
1884年 ベトナムの保護権をめぐって清とフランスの間に清仏戦争。12月金玉均ら親日的急進改革派が閔氏政権を倒し親日政権を樹立するも、清の干渉により失敗(甲申政変)。
1885年 4月伊藤博文と清の北洋大臣李鴻章が、出兵の事前通告を定めた天津条約を締結。
1894年 3月東学党の乱、6月清軍が朝鮮に上陸、日本朝鮮に派兵。8月日清両国宣戦布告。
1895年 1月北洋艦隊が降服。4月下関で日清講和条約。10月閔妃を殺害。
1896年 ロシアは朝鮮王高宗(こうそう)をロシア公使館に移す(露館播遷)。
1897年 ロシア公使館から王宮に戻った朝鮮王高宗が、国号を韓と改め皇帝を名乗る。
1898年 ロシアが東清鉄道南部支線の敷設権と関東州の租借権を得る。
1899年 ロシアは朝鮮の馬山浦に軍艦三隻を入港させ、土地を購入して石炭庫を建設。
1899年 渋沢栄一らの努力で仁川と永登浦間が開通。1900年京仁線完成。
1903年5月 ロシアは朝鮮の竜岩浦を租借し、鴨緑江を越えて森林伐採事業を行なう。1904年 日本の参謀本部が京義線(京城・新義州)の建設を始める。1905年12月完成。


3 日韓併合にいたる日本と韓国の関係(復習)

1904年2月10日日露戦争勃発、12日韓国皇帝局外中立宣言、23日日韓議定書調印(韓国政府は日本政府の施政改善の忠告を受け入れる、日本は韓国皇室の安全康寧を保証する)。8月10日黄海海戦、22日第一次日韓協約調印(日本政府の推薦する日本人一人を財務顧問に、外国人一人を外交顧問に。韓国の外交は日本が担当し、日本人駐剳官を設置する)。
1905年5月日本海海戦、7月桂=タフト条約(日本がアメリカのフィリピン支配を認める代わりにアメリカは日本の韓国支配を認める)、8月第二次日英同盟(イギリスは日本の韓国支配を認める代わりに同盟条約の適用範囲にインドを加えることを要求)、9月ポーツマスで日露講和条約(日本の韓国保護承認)。11月第二次日韓協約(=韓国保護条約:日本の統監が韓国に駐留、韓国と列国の外交は東京で、韓国の在外外交機関はすべて廃止)。
1907年6月高宗がハーグの万国平和会議に密使を送り日本を非難、韓国統監伊藤博文は高宗を譲位させる。7月第三次日韓協約(韓国政府は、法令制定、重要行政処分、高等官吏任免に日本人統監の承認を必要とする。日韓両国人による裁判所新設、監獄新設が行なわれ、日本人多数が韓国官吏に任命される)。8月韓国軍隊の解散により各地で抗日反乱。
1909年6月 伊藤博文は統監を辞任、10月ハルビンで安重根(あんじゅうこん)に暗殺される(新説あり)。
1910年5月 寺内(てらうち)正毅(まさたけ)が韓国統監となり軍事・警察の実権を掌握。10月日本が韓国を併合。


4 日韓併合による「七奪」(主権、国王、人命、国語、姓名、土地、資源)のウソ

1904年から総監府は朝鮮の歳入不足分を補填、資金立替を実施したほか直接支出で援助。1907年度の朝鮮の国家歳入は748万円、必要な歳出は3000万円以上、差額は日本が負担。1908年3100万円を日本が支出。総監府時代の4年間に日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分1428万円、司法と警察分野への日本政府の支出金額9000万円。朝鮮経済は1910~40年、年平均3.7%の成長、人口増加率1.3%、一人あたり実質所得年平均2.4%増加。

一「主権を奪った」:年表にある通り、清の属国であったのを独立させたのは日本である。日露開戦時、大韓帝国では李(り)容(よう)九(きゅう)が「一進会」を結成、日露戦争後、一進会百万人会員の名前で合邦声明書、韓国皇帝、統監、首相に対して「日韓合邦」の嘆願書を提出。1910年日韓は「韓国併合ニ関スル条約」を締結した。韓国皇帝は詔勅で首相に全権を委任する。

二「国王を奪った」:日本は李王家を日本の皇族の一員に迎え、毎年180万円(約200億円)の李王家歳費を計上、李王家の王世子李垠(りぎん)殿下に梨(なし)本宮方子(もとのみやまさこ)女王が嫁ぐ。両班も華族に。

三「人命を奪った」:韓国では1894年から1945年までの50年間、日韓は戦争状態にあり、日本軍は朝鮮人数十万人を殺したと教える。東学党は日清軍と9ヶ月交戦、死者30万人。
1919年の三・一運動を日本は残虐な手段で弾圧、多くの朝鮮人を虐殺したと韓国は主張。
実際には送検された被疑者12668人、8417人が起訴され一審で3967人が有罪判決を受けたが、日本人憲兵6名、警官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑なし、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役80人、のち刑期が半分以下になった。
1910年朝鮮全土で1千万石だった米の生産高は1930年代に2千万石を超え、1933年から38年にかけて農家収入は二倍に、朝鮮人の平均寿命1910年25歳から1944年45歳に。

四「国語を奪った」:ハングルについては別紙参照、朝鮮総督府は「普通学校用諺文(オンモン)綴法」を決定して教科書に採用、ソウルとその近郊の言葉を標準語と定めた。これが今の韓国語。1920年総督府による本格的朝鮮語辞典完成、1924年京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学講座開設。1941年に日本語を「やや解する」「普通会話ができる」者390万人、全人口の16%。

五「姓名を奪った」:1911年に朝鮮総督府は朝鮮人が日本式姓名を名乗ることを禁止したが、朝鮮人満洲開拓団からの強い要望により1939年に朝鮮戸籍法を改正、朝鮮人が日本名を名乗ることを可能にした。姓を戸籍簿上に残し氏を創設、手数料を払えば名前も変えられる=「創氏改名」。結果的に80%の朝鮮人が日本名の「氏」を選択した。

六「土地を奪った」:李氏朝鮮時代は所有権の概念が曖昧だったので、朝鮮総督府は1910~18年、近代的測量技術を使って土地調査を行い、270万町歩と言われていた耕地が実際には487万町歩あることを明らかにした(耕地の45%を両班が隠匿していた)。1922年に朝鮮半島における国有地及び日本の法人・個人が保有していた土地は全耕地面積の6%。

七「資源を奪った」:収奪どころか日本は税金をつぎ込み産業を育成。併合後、毎年2000万円前後の資金を持ち出し、1939年になっても日本からの補充金と公債が全予算額の25%。日本統治期間を通じて日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は累計20億7892万円(63兆円)、鉄道建設の総経費換算で10兆円以上、民間資金も水豊ダムだけで3兆円以上になる。


5 南北分断された朝鮮半島は、朝鮮戦争(1950~1953.7休戦)で荒廃した

1945年日本の敗戦後38度線が軍事境界線になる(1946年1月に人の移動ができなくなる)。
南はGHQの軍事占領下で李承晩(りしょうばん)と金九(きんきゅう)と呂運亨(りょうんきょう)がしのぎを削り、李承晩が二人を暗殺。
北はソ連が33歳の金日成(きんにっせい)(本名金成柱)を沿海州から軍艦に乗せて上陸、傀儡政権を作る。
1948年 済州島で四・三事件(李承晩による島民の大虐殺、6年間で6万人が虐殺された)。
5月の総選挙で600人が殺された後、8月李承晩を初代大統領とする大韓民国の樹立宣言。
9月朝鮮民主主義人民共和国建国。李承晩は「北進統一」金日成は「国土完璧」を唱える。
1950年6月25日北朝鮮の奇襲により朝鮮戦争が勃発、李承晩は漢江の橋を爆破して撤退。
李承晩釜山に逃げる、国連軍司令官の仁川上陸作戦が成功し、李承晩はソウルに戻る。
1951年江華島良民虐殺事件、国民防衛軍幹部の物資横領により9万人の韓国軍兵士が餓死。
1952年1月李承晩ラインを宣言、日本漁船の拿捕、日本人漁民の殺傷・抑留が頻発する。
1953年4月韓国が竹島を占拠。7月朝鮮戦争停戦協定(大韓民国の要人は署名しない)。
1954年四捨五入改憲(大統領任期が三選できないのを撤廃する改憲案可決に1票足りず)。

参考・推薦文献
松木國俊「ほんとうは「日韓併合」が韓国を救った!」『歴史通』2014年5月増刊号、ワック
李榮薫『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』文藝春秋
ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー『「日本の朝鮮統治」を検証する』草思社
黄文雄『韓国は日本人がつくった 朝鮮総督府の隠された真実』徳間書店


付録:パクパ文字とハングルの関係

13世紀モンゴル帝国のフビライ・ハーン(元の世租)がチベット人高僧パクパに命じて創らせた「蒙古新字」をパクパ文字と言う。チベット文字を縦書きにしたアルファベットである。高麗(こうらい)は、1259~1392年モンゴルの臣下であった時代にこの文字の知識を得て、1446年、李氏朝鮮第四代王世宗(せそう)が「訓(くん)民(みん)正音(せいおん)」を公布した。しかし、朝鮮の知識階級は、漢字を「真字」とする一方、ハングルを「諺文」(オンモン:俗っぽい文字という意味)と呼んで蔑み、両班(ヤンバン)たちは決して使おうとしなかったので普及しなかった。
今では「ハングル(偉大な文字)」と呼ぶが、これを普及させたのは福沢諭吉とその門下の井上角五郎(1983年朝鮮政府顧問になり、官報として朝鮮初の近代的新聞「漢城旬報」を創刊、1986年に漢字とハングルの混合文を使って「漢城周報」を創刊した)である。

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前回9月2日の前編ご覧になりたい方は以下のレジュメをご覧ください。
テーマ「真実の朝鮮史Ⅰ-日韓併合に至るまでの李氏朝鮮と日本」
レジュメ http://blog.goo.ne.jp/kirakiraboshi31/d/20140903




参考資料
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