「外交も戦争も全て情報戦によって決まる-コミンテルンと昭和史の真相」③昭和2年、コミンテルンの対日戦略の幕開け
「外交も戦争も全て情報戦によって決まる-コミンテルンと昭和史の真相」
③昭和2年、コミンテルンの対日戦略の幕開け
スターリン、そして「コミンテルンの対日戦略」が大きく動き出すのは1927年(昭和2年)の事である。 この年には、ソ連にとって対外戦略の見直しを迫られる出来事が相次いでいた。一つは、イギリスで起きたアルコス事件である。当時ソ連は、「アルコス」という会社名でロンドンに貿易事務所を開設し、事実上の大使館としていた。そこに、モスクワからイギリス共産党に宛てた暴力革命の指令が届いたという情報を暗号解読によって入手したイギリスの当局が急襲し、多くのコミンテルン系の秘密文書を押収した。文書からソ連がイギリスの革命勢力に武器を供与するといった攻撃的工作を行おうとしていたことが明るみに出ると、イギリス国内は反ソ的世論が沸騰し、イギリスは、モスクワから見ると、「今にもソ連に戦争を仕掛ける」という雰囲気にまでなった。前述の通り、欧米各国の共産主義に対する取締りは、治安維持法のあった日本よりも実質的にははるかに苛酷であり、効果的でもあった。
もう一つは、中国で起きた「四・一二上海クーデター」である。北伐中の蒋介石が国民革命軍を揚子江流域にまで北上させて上海に入り、臨時政府を樹立していた共産党を弾圧したのである。また北京の張作霖政権によって北京のソ連総領事館が捜索をうけ、やはり暴力革命や中国転覆を目指す工作指令などを記した機密文書が多数押収された。
ソ連にとってみれば、自らの攻撃的な体外秘密工作、謀略がすべて発覚したわけで、下手をすれば、「帝国主義国」に侵略されかねないという情勢であった。そこで、それまでのような露骨な手段ではなく、目に見えない一層ディープな秘密工作で「帝国主義」、つまり自由主義国の政権転覆、あるいは社会不安を引き起こし、徐々に共産革命を実現しょうという方針に切り替えたのである。
この方針に基づくコミンテルンの「対日工作基地」となったのが、日本を含め世界中から秘密共産党党員が集まっていた上海である。この時期の上海には、世界中から左翼がかったジャーナリスト、中国に同情的なふりをした共産主義者の学者・文化人等が流れ込んできていた。そして彼らを手足に使い、よりディープな、あるいは新しい国際的「世論」工作に長けた辣腕の工作員がモスクワの指令でこの時、上海へ続々と集結した。
例えば、張作霖爆殺のソ連犯行説で「首謀者」とされるGRU工作員のフリストフェル・サルヌィニ。アメリカ人ジャーナリストのカバー(身分偽装)を施したアグネス・スメドレー。スメドレーは、のちにゾルゲと尾崎秀実を上海で結び付けてもいる。尾崎自身も28年に朝日新聞上海特派員として赴任した。中国共産党員の身分を隠して経済学者として国際的な活躍をしていた陳カンショウも1930年にゾルゲと一緒にモスクワから上海に来ていた。毛沢東と中国共産党を美化したプロパガンダ本「中国の赤い星」で世界に多大な影響を与えたアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーもこの時期に上海に入っていた。
そして1928年には「済南事件」が起こり、張作霖爆殺事件が起きた。ここから日本を巡る国際情勢は大変なスピードで動き出すのである。この27~28年の「上海へ」というコミンテルンの動きが、実は日本にとっては昭和の戦争史の幕開けだったのであり、日本は「悲劇の回路」へと追い込まれてゆくのである。
当時の上海には周恩来をリーダーとして地下に潜っていた中国共産党中央があった。毛沢東たちは江西省の山奥の瑞金で、中華ソビエト臨時政府を樹立していたが、実際は何の影響力もなかった。
中共中央は、着々と対日工作を進めつつあった。近衛文麿の父、篤麿が明治に設立した「日支交流」のための教育機関「東亜同文書院」にも昭和4~5年には共産主義が浸透していた。有名なのだ。1930年、上海に入港した日本の軍艦の水兵に、同文書院の学生たちが「共産党万歳」「日本帝国主義打倒」というビラを撒いた事件であったが、それを指揮したのが、のちにゾルゲ事件で検挙され戦後は日本共産党の国会議員となる中西功と、西里龍夫という同文書院の左翼学生であった。彼等は既に中共中央と秘密裏に連繋していた朝日新聞・上海支局員、尾崎秀実の指揮下にあった。
実際、中西らは中国共産党員として、王学文らを通して周恩来によって動かされていたのである。確かに周恩来はコミンテルンの指令を受けていたが、そもそも尾崎も中西も、28年から30年にかけてのこの時期、日共やモスクワとの繋がりを持つ以前から中国共産党と連繋し、その中でコミンテルンに間接にリクルートされていったのである。
ゾルゲ事件で逮捕された尾崎は、自身の共産主義者としての活動を手記として遺したが、上海時代に就いて、「東亜同文書院の左翼学生グループと関係を持ち、またその関係から中国共産党の下部組織との連絡、さらにその上部組織とも関係を持つようになり、ついでアグネス・スメドレーと相識するに及んで国際的な線とも関係を生じ、爾来コミンテルンの為の諜報活動に従事し・・・」と記している。しかしこれは嘘で、中西らの供述によれば、尾崎は同文書院との線とは別に、それ以前から中国共産党との間に深い関係があったのである。
二十世紀の日本知識人の弊害を究極的な形で体現した尾崎という人物は、ただのスパイではなかった。昭和十年代、国家存亡の危機に立っていた日本の国策を大きく捻じ曲げて、支那事変(日中戦争)を意図的に「泥沼の戦争」に陥らせ、故意に日本の破滅、ひいては敗戦革命を策して対米戦争へと向かわせる上で重大な役割を果たしたのであった。実際、この間(昭和12~16年)、日本を対米開戦に向かわせる上で、共産主義者であることを隠し、「中国問題専門家」として近衛文麿内閣のブレーンとなった尾崎の役割は今日想像されているよりもはるかに大きいものがあった。彼の言論によって陸軍も漢口攻略など事変拡大論にまとまっていったし、北侵、つまりソ連を攻めるのではなく南侵論を唱え、対米戦争という悲劇の回路に日本を追い込む上でも尾崎は大きな役割を果たした。尾崎をはじめ先述した革新閣僚、軍部の統制派によって、日本が大東亜戦争という国家破局への道へと舵をとっていてことは、尾崎や革新官僚らを身近に置いていた近衛が昭和20年2月14日、昭和天皇に提出した上奏文によってもすでに明らかである。
③昭和2年、コミンテルンの対日戦略の幕開け
スターリン、そして「コミンテルンの対日戦略」が大きく動き出すのは1927年(昭和2年)の事である。 この年には、ソ連にとって対外戦略の見直しを迫られる出来事が相次いでいた。一つは、イギリスで起きたアルコス事件である。当時ソ連は、「アルコス」という会社名でロンドンに貿易事務所を開設し、事実上の大使館としていた。そこに、モスクワからイギリス共産党に宛てた暴力革命の指令が届いたという情報を暗号解読によって入手したイギリスの当局が急襲し、多くのコミンテルン系の秘密文書を押収した。文書からソ連がイギリスの革命勢力に武器を供与するといった攻撃的工作を行おうとしていたことが明るみに出ると、イギリス国内は反ソ的世論が沸騰し、イギリスは、モスクワから見ると、「今にもソ連に戦争を仕掛ける」という雰囲気にまでなった。前述の通り、欧米各国の共産主義に対する取締りは、治安維持法のあった日本よりも実質的にははるかに苛酷であり、効果的でもあった。
もう一つは、中国で起きた「四・一二上海クーデター」である。北伐中の蒋介石が国民革命軍を揚子江流域にまで北上させて上海に入り、臨時政府を樹立していた共産党を弾圧したのである。また北京の張作霖政権によって北京のソ連総領事館が捜索をうけ、やはり暴力革命や中国転覆を目指す工作指令などを記した機密文書が多数押収された。
ソ連にとってみれば、自らの攻撃的な体外秘密工作、謀略がすべて発覚したわけで、下手をすれば、「帝国主義国」に侵略されかねないという情勢であった。そこで、それまでのような露骨な手段ではなく、目に見えない一層ディープな秘密工作で「帝国主義」、つまり自由主義国の政権転覆、あるいは社会不安を引き起こし、徐々に共産革命を実現しょうという方針に切り替えたのである。
この方針に基づくコミンテルンの「対日工作基地」となったのが、日本を含め世界中から秘密共産党党員が集まっていた上海である。この時期の上海には、世界中から左翼がかったジャーナリスト、中国に同情的なふりをした共産主義者の学者・文化人等が流れ込んできていた。そして彼らを手足に使い、よりディープな、あるいは新しい国際的「世論」工作に長けた辣腕の工作員がモスクワの指令でこの時、上海へ続々と集結した。
例えば、張作霖爆殺のソ連犯行説で「首謀者」とされるGRU工作員のフリストフェル・サルヌィニ。アメリカ人ジャーナリストのカバー(身分偽装)を施したアグネス・スメドレー。スメドレーは、のちにゾルゲと尾崎秀実を上海で結び付けてもいる。尾崎自身も28年に朝日新聞上海特派員として赴任した。中国共産党員の身分を隠して経済学者として国際的な活躍をしていた陳カンショウも1930年にゾルゲと一緒にモスクワから上海に来ていた。毛沢東と中国共産党を美化したプロパガンダ本「中国の赤い星」で世界に多大な影響を与えたアメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーもこの時期に上海に入っていた。
そして1928年には「済南事件」が起こり、張作霖爆殺事件が起きた。ここから日本を巡る国際情勢は大変なスピードで動き出すのである。この27~28年の「上海へ」というコミンテルンの動きが、実は日本にとっては昭和の戦争史の幕開けだったのであり、日本は「悲劇の回路」へと追い込まれてゆくのである。
当時の上海には周恩来をリーダーとして地下に潜っていた中国共産党中央があった。毛沢東たちは江西省の山奥の瑞金で、中華ソビエト臨時政府を樹立していたが、実際は何の影響力もなかった。
中共中央は、着々と対日工作を進めつつあった。近衛文麿の父、篤麿が明治に設立した「日支交流」のための教育機関「東亜同文書院」にも昭和4~5年には共産主義が浸透していた。有名なのだ。1930年、上海に入港した日本の軍艦の水兵に、同文書院の学生たちが「共産党万歳」「日本帝国主義打倒」というビラを撒いた事件であったが、それを指揮したのが、のちにゾルゲ事件で検挙され戦後は日本共産党の国会議員となる中西功と、西里龍夫という同文書院の左翼学生であった。彼等は既に中共中央と秘密裏に連繋していた朝日新聞・上海支局員、尾崎秀実の指揮下にあった。
実際、中西らは中国共産党員として、王学文らを通して周恩来によって動かされていたのである。確かに周恩来はコミンテルンの指令を受けていたが、そもそも尾崎も中西も、28年から30年にかけてのこの時期、日共やモスクワとの繋がりを持つ以前から中国共産党と連繋し、その中でコミンテルンに間接にリクルートされていったのである。
ゾルゲ事件で逮捕された尾崎は、自身の共産主義者としての活動を手記として遺したが、上海時代に就いて、「東亜同文書院の左翼学生グループと関係を持ち、またその関係から中国共産党の下部組織との連絡、さらにその上部組織とも関係を持つようになり、ついでアグネス・スメドレーと相識するに及んで国際的な線とも関係を生じ、爾来コミンテルンの為の諜報活動に従事し・・・」と記している。しかしこれは嘘で、中西らの供述によれば、尾崎は同文書院との線とは別に、それ以前から中国共産党との間に深い関係があったのである。
二十世紀の日本知識人の弊害を究極的な形で体現した尾崎という人物は、ただのスパイではなかった。昭和十年代、国家存亡の危機に立っていた日本の国策を大きく捻じ曲げて、支那事変(日中戦争)を意図的に「泥沼の戦争」に陥らせ、故意に日本の破滅、ひいては敗戦革命を策して対米戦争へと向かわせる上で重大な役割を果たしたのであった。実際、この間(昭和12~16年)、日本を対米開戦に向かわせる上で、共産主義者であることを隠し、「中国問題専門家」として近衛文麿内閣のブレーンとなった尾崎の役割は今日想像されているよりもはるかに大きいものがあった。彼の言論によって陸軍も漢口攻略など事変拡大論にまとまっていったし、北侵、つまりソ連を攻めるのではなく南侵論を唱え、対米戦争という悲劇の回路に日本を追い込む上でも尾崎は大きな役割を果たした。尾崎をはじめ先述した革新閣僚、軍部の統制派によって、日本が大東亜戦争という国家破局への道へと舵をとっていてことは、尾崎や革新官僚らを身近に置いていた近衛が昭和20年2月14日、昭和天皇に提出した上奏文によってもすでに明らかである。
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