東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

【「どうする家康」外伝⑤】 「関ヶ原の戦い」に大きく関係した会津・上杉景勝 戦闘では家康軍勝利も、主力は豊臣系武将で戦後の大名配置計画に狂い

東アジア歴史文化研究会
関ヶ原古戦場。標柱には「徳川家康最後陣地」と刻まれていた=岐阜県関ヶ原町

実は、徳川家康から再三の上洛要請を景勝は拒否していたのだ。家康にしてみれば、「貴殿のところでは、いま盛んに道路を修復したり、城の改修をしているとか聞く。謀反の準備という噂だよ。一度、上洛して、その誤解を解かれてはいかが?」という提案だった。

しかし、謹厳実直の景勝は首肯(しゅこう)しない。代わりに、景勝の命を受けた執政の直江兼続が返事を書いた。

「当地に赴任したばかりの者が不都合と気付いた個所に手を入れるのに、何の不都合がありますものか。そんな当たり前のことに神経を尖らせる貴方様の方にこそ、けしからぬ気がおありなのではないか」

こういう趣旨の内容だったから家康は怒った。

1600年6月16日、家康は「会津征討」を呼号する。でも、ここが家康の巧妙なところで、この戦いには徳川の家臣団はもちろんいたが、豊臣の武将たちも従軍していた。つまり、この会津征討は上杉と家康の私闘ではなく、豊臣のいる京都にあいさつに来ない上杉の非礼を糾弾するための戦(いくさ)。つまり、「これは公儀の名前をもってする公の戦いである」という考え方によった。

ただ、自分が上方を離れ、それも長期になるとすれば、それを見て豊臣家家臣、石田三成が動くだろうという読みが家康にはあった。この2人の間に戦の大義名分はない。相手が先に動いたら、初めて「売られたけんかだから」と、こっちが動く理由が見つかる。

そして、家康の思惑通り、三成が先に動いた。進発ひと月半。征討軍が会津まで行きつかぬうちの、場所も栃木の小山あたり。そこに、「三成蹶起(けっき)」の報が入る。「ヨシ」とばかり家康側は小山評定に入る。

上杉掃討軍を前に家康はこう演説をする。

「みなさん、本当にご苦労さん。われわれが一致団結して景勝の心得違いを諫(いさ)めなければならぬこの時に、三成が蜂起した。この際、私は上杉征討はやめて、上方へ帰る。豊臣の家臣たちの安全は、上方につくまで保証する。あとの行動はおのおのに任す!」

7月29日のことだった。小山を出て家康は8月5日に江戸城に入る。城を出たのが9月1日。このひと月近くの間、家康は江戸城で120通余りの手紙を書いていたというのだが…。

関ヶ原の戦闘そのものは、家康軍勝利。しかし、家康軍の主力3万は、家康の三男、秀忠の軍に預けてあった。その秀忠軍は戦端が開いた9月15日、遅刻してしまう。つまり「関ヶ原の戦い」の主力は、家康軍ではなく、実は家康に同盟した豊臣系武将たちだった。

そのため、戦後の大名配置地図は、家康が事前に計画していたものとは大いに様相が違ってしまったことも、付記しておく。


■松平定知(まつだいら・さだとも)
 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」などを担当。理事待遇アナウンサー。2007年に退職。現在、京都芸術大学教授などを務める。著書に『幕末維新を「本当に」動かした10人』(小学館101新書)、『一城一話55の物語』(講談社ビーシー)など多数。現在、アマゾンのオーディオブック「Audible(オーディブル)」で、北方謙三著「水滸伝シリーズ」(集英社刊、全19巻)の朗読作品を配信中。