東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

『国史烈々』連載(36) 秀吉の朝鮮征伐は「侵略」だったのか

東アジア歴史文化研究会

江戸幕府が平和と安定のために朝鮮通信使を受け入れた経過は歴史教科書にもでてくる。

江戸時代の朝鮮通信使は李氏朝鮮の江戸幕府への挨拶、朝鮮側の朝貢だった。日本からは一度も使節団は派遣されていない。朝鮮通信使は十二回にわたり、慶長12(1607年)から文化8(1811年)までの二百年余つづいた。最後の通信士使は対馬留め置きとなり、ようやく終止符を打った。外交的にも意味がないからだった。

石平『朝鮮通信使の真実』(ワック)は朝鮮通信使の歴史修正主義的解釈である。戦後の歴史教科書が教えるところの朝鮮通信使とは、日本がなした侵略の懺悔、謝罪のために朝鮮通信使を厚遇したことになっている。いや、その前に秀吉の朝鮮半島進出が「侵略」であったのだから日本は謝罪し賠償金を払って当然という錯誤した歴史解釈になりがちである。

真実は百八十度、反対である。

さきの解釈は倒錯した史観、というより戦後「創作」された出鱈目である。秀吉の朝鮮進出は切支丹伴天連の日本侵略を予防する自衛の戦争だった。イエズス会は今日の定義で云えば「IS軍」であり、宣教師は仮の姿であって、侵略の可能性を探るために派遣されてきた先鋭偵察隊だった(拙著『明智光秀 五百年の孤独』、徳間書店を参照)。

そのキリスト軍団が日本侵略の拠点化としてシナを植民地化しようとするなら、その前に先制攻撃をかけることは軍事学、地政学の常識だろう。

朝鮮通信使の謎を解く鍵は、第一に徳川幕府の政治的意図、第二は朝鮮側の自主的な意思、そして背後にちらつく中国の思惑と、その評価であろう。

第一回の朝鮮通信使の来日は慶長十二年(1607)だった。家康が天下を取って征夷大将軍となってから僅か三年後だった。

しかも使節は日本に謝罪を求めるのではなく江戸幕府への朝貢が目的だったのだ。

朝鮮が大型使節団の派遣に踏み切り、四拝半という臣下の礼をとっての朝貢だったことは明らかなのであり、これを戦後、歴史教育は教えず、左翼学者は意図的に無視した。要するに朝鮮が江戸幕府のご機嫌をとる必要性があった。屈辱的に日光東照宮への参拝を要請され、従った。

もっとも注目するべきは朝鮮側は日本に通信士を十二回も派遣したが、日本側は朝鮮に使節団を派遣したことは一度もないという重大事実である。

日本にやってきたのは当時の朝鮮の知識人達だった。屈辱の鬱憤を晴らすために、日本の印象を悪くする報告を書き上げた。しかし彼らが目撃したのはモノに溢れ、庶民の生活が豊かであり、礼儀正しく、清潔で、そして文明が高いという衝撃だった。

そのうえ朝貢にくる使節団を冷遇せず、高飛車にも出ず、日本は「おもてなし」に徹した。

「当時の江戸幕府と幕府の命令を受けて通信士の接待にあたって沿道の諸大名は、むしろ財力と誠意の限りを尽くしてかれらを最高級の賓客としてもてなした」(石平前掲書)のである。

お人好しニッポンの面目躍如だろう。にもかかわらず負い目を逆転して自らを高みに置くために朝鮮の通信使らは、日本の知識人の詩歌、教養が足りないとか字が汚いとか、林羅山は教養が劣るとか、そう報告することによって精神的な高低を自らが採点し、自分らを高みに置かなければ屈辱を晴らせないという強迫観念に取り憑かれていた。

福沢諭吉は後世に残る『脱亜論』を世に問うたが、主宰した『時事新報』(1985年2月26日)の社説でこう書いている。

「この国(朝鮮)を目して野蛮と評するよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わん」。

その「妖魔悪鬼の地獄国」では「反日」の暴走がとまらない。その結果、日本では韓国批判が嘗てない高まりを見せる一方で、多くの批評家、歴史家、学者、ジャーナリストらの研究の深化によって、従来の歴史観がひっくり返った。

これまでの左翼学者や朝日新聞が書いてきた現代朝鮮史は嘘だらけだったことが同時に明らかにされた。自称「歴史学者」と名乗る朝鮮史の多くが出鱈目だった。

第一は稲作をもたらした弥生人が朝鮮半島から来た渡来人であるといういかがわしい説に対して多角的な歴史検証がなされ、虚説であることが立証された。稲作はむしろ日本から半島に伝えられた。ついでに言えば縄文後期から稲作は日本で定着していた。その遺構が発掘され、誰も反論が出来なくなっている。

第二に民族のDNAが医学の進歩によって明らかにされ、日本民族と朝鮮の人々との遺伝子に共通性が低いことが判明した。考古学者らはDNAやミトコンドリアなどで、日本人と朝鮮人、中国人がまったく人種的に異なることがわかっても、知らん顔をしている。なぜなら自分たちの視野狭窄による「学説」が崩壊するからである。これは言語学系列の研究でも明らかになった。