中村彰彦著『孝明天皇毒殺説の真相に迫る』(中央公論新社) 孝明天皇暗殺の黒幕は「王政復古」を画策したあの人物だ ならば天皇の薬湯に砒素を混入した実行犯は誰だったのか?

猛暑がつづき脳幹の機能がくたびれて、思考能力が弛緩した。このだらだらとした猛暑を吹き飛ばしてくれるのが本書である。
『明治維新』を是とする人たちにとっては「不都合な真実」が並んだ。
岩倉具視は、維新の立役者として高く評価された。ところが維新の黒幕というより「幕末の蘇我馬子」だった。当時の岩倉具視は禁裏への出入りが禁止されており、蟄居の身の上だった。
ところが、岩倉の隠棲先に多くの志士たちが密談のために行っている。
もし本書が説くように孝明天皇が毒殺であったとすれば、岩倉具視は遠隔操作で暗殺を指示したことになる。
日本史がひっくり返る。
岩倉は生前の正一位である。生前、正一位の例はすくなく、家康とて追号、「我が世とぞ思う」の藤原道長にしても従一位である。
本書は「えっ」と驚くような歴史の謎に挑み、その闇を切り裂いた。すると露呈した恐るべき史実。孝明天皇の崩御は天然痘による病死だとされてきた。真相は毒殺だったというのだから皇国史観華やかなりし頃の論壇では考えられない説である。
真偽はともかく著者は関連史料を再読し、とくに史学者ではなく、医学的見地から死因は急性砒素中毒であることを突きとめた。背後で画策した黒幕と置毒した実行犯の女官の名前を割り出した。
維新史最大の謎の解明に挑んだことになるうえ歴史学界を震撼させる衝撃の作品だが、おそらく史学会は無視するか、沈黙するだろう。
詳細のストーリーをこの稿で書いてしまうと書店にいかない人がいるだろうから、詳細は本書にあたっていただきたい。 骨格は月刊誌『WILL』に連載された。
わが国の歴史において天皇を暗殺したのは蘇我馬子の崇峻天皇が記録に残る最初のケースである。 暗殺が疑わしいのは安康天皇、源平の合戦で海に沈んだ安徳天皇と三人が挙げられる。
また解釈の相違があるので、この列に加えられないが、天皇に即位していなかった大友王子は壬申の乱の敗戦により自裁に追い込まれた。
大友が弘文天皇とおくりなされ皇統譜にはいるのは明治9年のことである。つまり壬申の乱の混乱が主因で即位されていなかった。天智天皇の実弟、大海兄皇子(のちの天武天皇)が立ち上がって壬申の乱を惹起し、天智天皇が太政大臣とした大友皇子の近江朝を敗北させたのは、松本清張らのいう皇位簒奪にはあたらない。
即位が確認されない上、西国の豪族等はひとりも近江朝に味方しなかった。皇位継承を認めていなかったからだ。
第二十一代の雄略天皇が皇位継承有力だったイチノヘオシハ(市辺押磐皇子)を狩りに誘い出して射殺した。これも暗殺だが、イチノヘノオシハは即位していたという説とそうでない説がある。明治九年の皇統譜ではイチノヘオシハの即位を認めていない。
イチノヘオシハは第十七代履中天皇の皇子、目弱王が安康天皇を殺害し、それを聴いたワカタケルこと雄略天皇は、すぐに皇位後継で競合することになる兄二人をかたづけ、葛城一族のところへ逃げ込んだ目弱王をもろともに焼き殺し、ついで皇位継承最大のライバルだったイチノヘの暗殺に及んだ。
その雄略とて息子の清寧天皇に皇子なく、称制は暫し飯豊天皇(イチノヘの妹)が担い、播磨に隠れていたイチノヘオシハの遺児二人がでてきて仁賢、顕宗となる。しかし飯豊天皇も『皇統譜』から削除された。
女帝・孝謙天皇がなした淡路廃帝も仲麻呂の傀儡だった淳仁天皇を淡路へ配流し、脱出に及んだので部屋に閉じ込めると自裁した、というストーリーになっている。おそらく暗殺であろう。孝謙女帝は、淳仁崩御の後、称徳天皇として重祚された。
第十代崇神天皇まで天皇家は「皇統譜」というより「豪族譜」の歴史と見るべきであって、初代神武天皇は大和の豪族間に闖入して「共同王」となった。現在の神武天皇陵は幕末に急遽治定されたものでしかなく、実際に行ってみると霊気が乏しい。
ヤマト王権を事実上かためたのは第十代崇神天皇であり、やまとことばでは、ハツクニシラスミマキイニエイリビコである。当時は「大王」とよばれた。雄略天皇はあきらかに大王と呼ばれ、天皇という言葉は西暦702年からである。
皇統後継の候補者に関してはじつに多くの皇子達の悲劇があった。このことは稿を改める。
ともかく近代史の解釈に投げ込まれた爆弾が本書である。
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