『国史烈々』連載(38) 桓武天皇は何を残したか
(承前)
筆者は藤原種継暗殺の真犯人はともかく、誰が一番得をしたかと後智恵で判断すれば、桓武天皇にいきつくと述べたことがある。
早良王は高野新笠を母とする桓武天皇の同母弟である。母方の出自を事由に立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、「親王禅師」と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司の指導的な地位あった。
桓武天皇が即位したことにより早良親王は還俗して桓武天皇の皇太子に立てられた。ところが事態は急展開し、早良親王は藤原種継暗殺に関与したとして立太子を廃され、絶食して没した。
その後、皇太子に立てられた安殿(あて)親王(桓武の皇子)の発病、桓武天皇妃の藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王の生母である高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。あげくには延暦19年(800年)、崇道天皇と追称された。
長安の都を真似た平安京(すなわち京都)。平安神宮はシナ風の拵え。朱色がまぶしげに輝くが国風の風格が備わった神社という印象が希薄である。
平安神宮の主神はいうまでもないが、この地に遷都した桓武天皇と幕末の攘夷思想家でもあった孝明天皇である。明治政府は明治28年に「平安遷都1100年記念事業」として大内裏の一部を復元した。だから平安神宮は新しい神社である。威風堂々ではあれど霊異が薄いのはその所為だろうか。
さて桓武天皇の父、光仁天皇は天智の皇子、施基皇子と紀象媛とのあいだに産まれた。紀氏は物部、大伴、佐伯各氏とならんで武将の名族である。
疫病の蔓延などで、白壁王の兄たちが全員不在となっていた。
天平宝治元年(757)に大炊王(淳仁天皇)が藤原仲麻呂の政治工作で皇太子となり同時に白壁王は遅ればせ、正四位となった。
この白壁王に注目したのは野心家の藤原仲麻呂だった。
「仲麻呂が白壁王に目をつけた理由は何か。一つは、これ以前、白壁王が聖武天皇の娘で或る井上内親王を后に迎えていたことだ」。
ところがその白壁王は仲麻呂の叛乱においては称徳天皇側につき、仲麻呂討伐軍で軍功をあげ勲二等を得ている。同じく勲二等となった「吉備真備は、いうまでもなく仲麻呂追悼軍の事実上の指揮者であったから、白壁王も追討軍の一人として果敢な行動を取った」(瀧浪貞子『桓武天皇』、岩波新書21p)
そして時間が経って、藤原永手、百川らは光仁天皇の後継に山部王(桓武天皇)をおす画策を始めた。
当時の序列、常識的な秩序から言えば、正統な後継者は他戸親王である。
永手は娘の曹子を、百川は娘の産子をそれぞれ光仁の後宮に送り込んでいた。永手は藤原仲麻呂が不在となって、隠棲していた難波も別荘から復活した。
白壁王には尾張女王との間に稗田親王が、犬養氏の間に広根諸勝、島媛との間には弥努魔内親王。そして井上内親王とのあいだに酒人内親王と他戸親王があり、格式がもっとも高い、有力な皇位継承候補は井上内親王が産んだ他戸親王だった。
山部王は母親の高野新笠が帰化人の末であり、ハナから皇位継承の対象ではなかった。
淳仁天皇を廃帝とし、称徳天皇として重祚した女帝は、白壁王を後継指名せずにみまかったが、意中は白壁王だったことは傍証されている。なぜ称徳女帝が遺言を残さなかったかといえば、父の聖武天皇は後継を道祖王(ふなどおう)としていたから生前に公言できなかったからだ。
ただし吉備真備は天武系が絶えることになるとして白壁王の即位に反対したものの、状況的に権力は藤原永手と百川にあった。永手が不在となってから藤原魚名が登場するが、この時点では魚名は中央政界にはいない。
光仁天皇の即位に権威をもたせるために、異例にも父の施基親王に天皇号を追号する(春日宮御宇天皇<かすがのみやにあめのしたしらしめしすめらみこと>)。むろん、皇統譜には載っていない。
そして井上内親王が皇后に立てられた。ということは皇位継承者はその皇子、他戸親王となる。だから宝亀二年(771)には立太子されているのである。山部王はその侍従、従四位下。皇位継承の圏外である。
このダークホース的な山部王の立太子という「奇跡の回天」、というより番狂わせは藤原永手の急死である。
光仁即位の翌年に、仲麻呂追討の功績もあった永手が不在となると、藤原北家にかわり、藤原式家を代表する藤原良継が藤原氏を代表する。良継は宇合の次男。一気に権力を握ると異母弟の藤原百川と組んで山部王擁立の謀略を展開するのである。
あろうことか、井上皇后が光仁天皇を呪詛したという言いがかりをつけて、おりからの渤海使接待、帰国をまって廃皇后、その二ヶ月後には他戸親王も廃嫡するという暴挙にでた。翌年には二人を廃屋に幽閉し暗殺する。この間に山部王が立太子していた。背景には藤原四家の凄惨な内ゲバ、権力闘争が絡んだ。
前出の瀧浪貞子はこう言う。
「良継・百川の兄弟一族(式家)は、聖武天皇の時代、長兄広継が吉備真備と僧玄坊を非難したため聖武から反逆者のレッテルを貼られ家勢は衰退していた。ついで南家(嫡男家)も仲麻呂の誅殺によって衰微する中で、藤原一族の主導権を握っていたのが北家の永手であった。その永手が急逝した。家勢挽回の機会を狙っていた良継らが千載一遇のチャンスを見逃すはずはなかった」(岩波前掲)。
山部王なら操れるとばかり兄弟は利害関係の妙を見いだした。光仁天皇のように政治的力量のない天皇を欺すことなどかれら陰謀家にとっては容易なことだったに違いない。
正当性が疑わしい桓武天皇に対して、これを否定するクーデター未遂と呪詛事件が立て続けに起きた。
氷上川継の謀反は部下の皇居乱入事件で発覚した。この川継は天武の祖孫にして父は塩焼王。アンチ桓武勢力を糾合できる立場にあった。クーデターは失敗し、氷上川継は伊豆に配流となった。
呪詛事件は三方王と弓削女王等が興した。川継事件に重なった。桓武の皇位継承に異議申し立てがあったことだけでも世間はその正当性を疑問視していたのである。
川継の母、不破内親王と川継の姉妹たちも連座して淡路国へ流され、大宰員外帥として大宰府に赴任していた舅の藤原浜成は解任され、左大弁・大伴家持や右衛士督・坂上苅田麻呂も一時解任された。
これを「氷上川継の乱」という。ただし川継は桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免され、翌年には従五位下に復され、皮肉なことに伊豆守を歴任した。
(この項、続く)
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