連載コラム(27)『日本の百霊域(パワースポット) 近藤勇と土方歳三、そして武田耕雲斎
新撰組はテレビドラムがヒットし、小説に芝居に映画に、大河ドラマにもなった。
テレビでは土方歳三が異様な人気を集めた。若い女性は圧倒的に沖田総司が好きという。
中村彰彦の『新撰組全史』(文春文庫)によれば新選組は結局、近藤勇(いさみ)あっての歴史であり、土方歳三を主人公とした幾多の時代小説を柔らかく批判している。
「男のロマン」という観点からすれば土方歳三は戊辰戦争を函館五稜郭まで戦って乱戦の中に死んだ。戦い続ける「男の美学」を貫いた、その侍の美意識に惹かれるがゆえに土方歳三のほうが近藤より人気が高い。
しかるに近藤勇は何故、流山(ながれやま)で新選組を投げ出したのか、武士として情けない。これが司馬遼太郎『燃えよ剣』や安部公房『榎本武揚』を貫く副次的なテーマだ。
しかし中村彰彦は沈着冷静に近藤勇の幼き日々からの美意識形成と歴史認識の過程を辿り、その死生観を論理的に引きだした。
近藤勇の剣の流儀は天然理心流である。
「北辰一刀流」が大人気を呼んでいた時代に「古武道の伝統を引き継ぐ天然理心流は稽古にも竹刀ではなく木刀を用いる」くらいの田舎剣法。それ故「自然と握力も腕っ節も強くなる」「相打ち覚悟の剣法」(中村)だった。
近藤の人生観の基礎はこのあたりにある。
そのうえ近藤勇は読書家で思想に明るく、『三国志』の英雄・関羽を好んだという。後にジャーナリストとなる旧幕臣の福地源一郎がある日、近藤勇の部屋を訪ねると、読みかけの頼山陽『日本外史』が置かれていた。
この近藤と土方のお墓はJR板橋駅前に小さな公園があって、そこに石碑が林立している。これは新撰組の生き残り永倉新八が建立した。
近藤勇はこのあたりで斬に処せられた。板橋刑場は移動型の臨時の場所だったから「このあたり」と謂わざるをえない。墓地には近藤の怨念がただようかのように不気味な空気が支配している。
近藤勇の公墓は会津藩松平家の墓地の入り口近辺にもある。雪の日に訪れたことがあるが、吹雪のなか、墓前の「投書箱」に全国からの新撰組ファン、それも若い女性たちの寄せ書きがあった。
新撰組は京都を拠点に鳥羽・伏見戦争を闘い、将軍慶喜が江戸に逃げ帰ってからは甲武鎮撫隊として山梨に展開、このとき勝海舟は新撰組を見限っていた。
上野に立て籠もった彰義隊とは別に新撰組は小山戦争を戦って、最後の籠城線を続けた会津へ合流し、さらに会津藩降伏後は榎本武楊の幕府軍鑑に合流して函館の五稜郭へ。
函館は松前城と江差方面に防御線を引き、最後まで戦いを諦めず、土方は武士の見本のように華麗に散った。
土方の死を待つかのように榎本武楊と大鳥圭介は官軍に降伏した。その後、榎本と大鳥は数年獄中にあったが、復帰後ふたりは明治政府の顕官となって新しい時代に活躍の場を与えられた。この打算的生き方を福沢諭吉は痛烈に罵倒した。
土方歳三の戦死場所は函館市の一本木(現在の若松町)。だが現場には碑があるだけで具体的な戦死場所と、埋葬場所が不明である。官軍は賊軍の埋葬を許さず、使者の首を晒したからだ。
おそらく五稜郭の何処かに土方の骨は埋まっているはずで、日野市石田寺にある土方の墓には遺髪が入っているだけという。
こう見てくると五稜郭城内で四方八方にむけて祈るしかない。したがって五稜郭そのものがパワースポットである。
それにしても新撰組はなぜこうまで日本人に好まれるのか。尚武の精神、反抗する一貫性、男の美学?
▼明治維新の思想的源流を溯る
明治維新の思想的源流をどのあたりまで求めるべきだろうか。
安政元年(1854年)に西郷隆盛が江戸の藤田東湖邸を訪れたことがある。当時、水戸藩と薩摩藩はきわめて緊密な関係の勤王佐幕派だったから島津齋彬のお庭版だった西郷と藤田は気軽に会った。
過激な尊王思想に薩摩と水戸が固まっていたため、廃仏毀釈は両藩でもっとも過激だった。これは平田篤胤の思想的影響である。
しかし徹底的に寺を破脚し、坊主を殺害したり追放したりの荒れ方を西郷隆盛はむしろ憂いた。悪魔的な信仰を西郷は危険視した。
それが西郷をして坊主頭にするのだ。ともかく志士らは攘夷に熱狂していた。薩摩が公武合体を捨てて反徳川に急傾斜するのは秘密裏に締結した「薩長同盟」以後である。
表向きの同盟斡旋者は坂本龍馬、つまり第三者を慎重に選んだのである。司馬遼太郎の『龍馬がゆく』は龍馬を過大評価した典型で、明治後期、日清・日露戦争を控えたわが国の世情を牽引するに愛国的突出行動家のモデルが必要だった。
龍馬はそれまでまったく無名だった。多くは、彼が武器商人であり、グラバーの代理人程度にしか考えていなかった。
▼正気の歌が聞こえた
日本を震撼させた「桜田門外の変」は水戸藩浪士の正気(せいき)の行動だった。
勅許を得ずに米国と条約を結んで開国を急いだ井伊直弼の暴挙を、民族の正気が許さなかった。
藤田東湖の「正気歌」の掛け軸は水戸の常磐神社にある義烈館に飾られている。大きな石碑は東京の隅田公園の一隅にある。公園を散歩する住民らは、石碑に無関心なことに愕然とするが、碑文も雨露で読みにくい状態である。
文天祥は十三世紀、南宋の政治家で、南宋覆滅後、元のフビライは仕えるように要請したが志操を貫き、拒否し続けたため死刑となった。節を曲げない忠君の硬骨漢として、日本での名声が高まった。
藤田東湖の歌は明らかに文天祥の正気歌に擬したもので尊皇愛国の思想が中枢にある。東湖の父、幽谷が文天祥の正気歌を愛誦したため頭のなかに入っていたのだ。
「水戸学」を旗印に会沢正志斉、藤田東湖ら多くの勤王の学者が輩出し、勤王を掲げた志士が全国から集った。そのなかに吉田松陰がいたのだ。ところが水戸には志士が集まりすぎて思想闘争に権力闘争が絡み、その内ゲバはあまりにも凄惨、その大悲劇は「天狗党」の乱へとつながった。
武田耕雲斉を頭領に担ぎ上げて天狗党は筑波山に挙兵し、西へ西へと追われる彼らは群馬から長野、金沢を経て越前へと至り、そこで全員がむざむざと処刑された。水戸では天狗党に加わった志士の家族も全員が無惨に殺された。
この身震いするような惨劇の結果、水戸藩には明治維新に人材が払底し、薩摩と長州に主導権を奪われた。
維新の功業は水戸藩士が活躍する場面が減り、薩長土肥に主役を奪われた。明治維新は戊辰戦争の終了を持って成立した。
いま水戸へ行くと藤田東湖親子が眠る募陵の入り口に集団の墓石が並んでいる。これが天狗党の公式的な墓である。
本物の墓は敦賀の松原にあって、武田耕雲斎の大きな墓を軸にずらりと烈士たちがならぶ、まことに鬼気迫るパワースポットだ。
集団墓地という構えが壮烈で殺気を漂わせている。正気と霊気が同居するような不気味な雰囲気、天狗党のうめき声が地下から湧くように聞こえた。亡霊が這いだして筆者の耳元で叫んだのは幻聴だったのか。
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