東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

連載(5)『日本の百霊域』(パワースポット)』 真脇遺跡はなぜ語られない?

東アジア歴史文化研究会

真脇遺跡の発見は1983年である。新しい発見だったので、歴史教科書にはまだ載っていない。

縄文時代にもっとも長く継続した集落は現時点では能登の真脇遺跡(6000年前から3700年間)だ。能登町は入江の奥が拓け、観光資源としては風光明媚の九十九湾が有名。能登空港から乗り合いタクシーで45分ほど。まずは真脇縄文館へ向かう。

この遺跡は昭和57年(1983)、用水路工事中に発見された。比較的新しい発見ゆえに知らない人が多いのではないか。

能登半島は珠洲市の手前が能都町、富山湾に面した入江からちょっと奥まった場所で、三方が段丘に囲まれた沖積層から真脇遺跡が忽然と現れた。段丘にある意味は縄文海進の影響だろう。

6000年前から2300年前まで、じつに3700年間、この真脇集落が継続した。ということは三内丸山遺跡の5500年前から1500年続いた例より古くて長いのである。筆者は石川県生まれだが、60年前に東京へでたので真脇遺跡のことは最近まで知らなかった。

5000年前の地層からイルカの骨が夥しくでた。それで真脇遺跡が「日本の漁業発祥の地」と言われる。遺跡の敷地内から集団墓地が発見されたのが2000年で、加賀のチカモリ遺跡(金沢市郊外)も1980年から本格調査が開始された。共通は巨木を円形にくみ上げた祭壇、すなわちウッズサークルである。

これが現地に復元された。

石棒信仰はファロス(男根)であり、活力の源泉として古代人が崇めた。高さ、強さ、エネルギーの象徴である。おそらく高い木々のサークルは石棒を重視するストーンサークルと同様に祭壇、祭祀の意味を持った筈である。

石器時代にはストーンサークルが斎場であり権威と権力を表した。縄文初期は巨木サークルが、古墳に匹敵する威信財であり、権力の象徴だった。出雲大社の高層建築は、この巨木を権威とした。 

真脇縄文集落が三内丸山より長く続いたのは驚き以外のなにものでもない。とくにパワースポットは復元されたウッズサークルで、その真ん中に立つと、霊異を感じる。

また真脇遺跡からは、鳥のかたちをした土器、把手付きの土製ランプ、魚のかたちをした石製品等。ほかの遺跡にない遺物が大量にでた。このうちの219点の出土品が重要文化財に指定された。

真脇遺跡では水田用地の地下一メートルを発掘し、採集と漁労で生活していた集落と判明した。

イルカの骨などに加えて土器、仮面、船の櫂などが出土した。最晩年の土層からは栗材が出てきた。金沢のチカモリ遺跡などからも同じ形式の構造物が発見されており、巨木文化の時代を彷彿させる。国の史跡となって真脇遺跡縄文館が建設され、二百数十点の貴重な出土品が展示されている。

「夢、想像ではなく、ここには縄文そのものがある」という謳い文句の真脇遺跡縄文館(石川県鳳至郡能都町字真脇)には把手付き土製ランプや鳥をデザインした土器、イルカ層からは285頭の骨、なかにはイルカの肩甲骨に石器の先端が突き刺さったもの、解体作業中の傷のあるイルカの骨があった。縄文人ははるかに高度な漁業を営んでいた。出土品はじつに多彩で土器、石器、装身具、編み物、木製品など。内部は撮影禁止なので、写真を紹介できないのは残念である。

雨上がりの夏の日、じっと展示物を見学した後、付近の巨木遺跡跡を撮影し、歩いて五分ほどで海へ出ると往時の漁労風景が瞼の中に浮かんだような錯覚にとらわれた。

巨木を数本そらに向かって垂直に建てた。天に近づくという古代人の信仰を象徴し、斎場としても儀式の役割を果たしたと推定できる。おそらく日時計としても活用され、遠くからは灯台かわりの目標でもあったのだろう。ましてこれだけの建築技術があったのだから、丸木舟を大型化したり、筏の連続接合などによる釣船の大型化も可能だったのではないか。

ウッズサークルの真ん中に立って瞑想してみた。

フト縄文人が現れた錯覚に囚われた。

見学を終えて、海岸のほうへ五分ほどあるく。停車場で半時間ほど持参した新書を読んでいると能登空港へ行くバスがやってきた。空港から金沢へ乗り換えるバスが一日に二便ある。筆者はそのバスに穴水まで乗って電車で七尾へ向かった。七尾で一泊した(それにしても七尾の寿司は氷見と並ぶ美味)。

かくして洞窟絵画、土偶、火焔土器など。。。縄文期には夥しいアーティストがいた。日本史が豁然と評価替えになるのは夥しい旧石器時代から縄文前期の遺跡の発見だった。

洞窟絵画壁画もアルタミラ(旧石器時代。18500年前)やラスコー(先史時代、2万年前)が有名だが、北海道余市で発見された「フゴッペ洞窟の岸壁刻画」はおよそ800点、昭和25年に海水浴にきていた中学生が発見し、この洞窟は2000年前の斎場とわかった。フゴッペ洞窟内にはオットセイ、鯨の骨も見つかった。食糧としていたのだ。

洞窟画は船、鳥人、動物などシャーマンにちなむものが多数であり、儀礼の場所と推定された。フゴッペ洞窟の近くにはストーンサークル(西崎山環状列石。4500年前)も出土し、縄文の繁栄が北海道小樽近辺にもあったことが分かる。

翌朝、県境でバスを乗り換えて石川県から富山県に入り海岸通りを南下した。途中の大境洞窟遺跡見学のためである。

縄文遺跡の住居跡はたいがいが、竪穴式だが、洞窟住居跡が富山県氷見市大境の白山神社裏手で発見された。この洞窟発見は大正七年と古いのだが実証に手間取った。社殿改築工事の現場で骨や土器が出土したため東大人類学研究室が本格的な調査を開始し、日本初の洞窟遺跡発掘となった。

古代の日本は日本海側が先進地帯であり、出雲、古志、蝦夷、熊襲、土蜘蛛、そして北九州の豪族等がヤマト王権と並ぶか、しのぐパワーを保持していた。

出雲は古志(越、高志とも書く)と連帯していた。それは古事記が描くオオクニヌシノミコトが古志の女王ヌナカワ媛への求婚である。出雲と古志がこの政略結婚で固く結ばれ、この連合には信濃も加わった。

吉備や宮崎県の西都原古墳など、仁徳天皇陵ほどの規模を誇る。これらの豪族連合の王にとって、はるか遠い内陸部のヤマト王権なぞは比較的新しい地域王権のワンノブゼムであり「近畿豪族連合」くらいの認識だったと考えられる。その共同王が神武天皇以来の王権というとらえ方だったに違いない。

巨石、巨木、石棒だった古代の威信財は突如、古墳となった。各地の豪族が覇を競ったのだ。そして仏教がはいってくると古墳はまたたくまに廃れ、大仏と壮麗な寺院の建築ブームとなった。古墳の建設の財力と労働力は豪族や皇族の力の象徴だが、聖武天皇が各地に国分寺を建設せよと詔するにいたって、絢爛豪華な寺院建設は古墳と同等かそれ以上の財力と労働力を必要とした。

男性の活力を象徴する石棒も間違いなく威信財である。

アニミズム的要素が強いが、ケルト族発祥地といわれるアイルランドの「タラ王の丘」へ行くと巨大石棒が置かれ「ケルトの心の故郷」という案内板がある。権力を示唆した祭器の象徴であり、人間の霊力は国境と時間をこえるから宗教的祭祀に使われたのだ。

日本の古墳は王権の象徴だが、縄文時代は巨木サークルが豪族王権の象徴だった。出雲大社の原型は発掘された巨木から推定しても当時の摩天楼である。威信財の典型で権力、権威の象徴が大木による高層建築物から判断できる。

出雲はオオクニヌシの國譲りで美化され、六世紀に古志の大王だった継体天皇により出雲、古志を大和朝廷が統一国家の土台に組み入れた。『古事記』、『日本書紀』はそのことに触れないが、古代人の知恵が表明されている。

日本海沿岸の北九州、出雲、古志が当時の先進地域だった。飛鳥、奈良、葛城、河内に栄えたヤマト王権は地政学的見地から言えば、かなり辺境だった。

地図を逆さにみるとこの謎は簡単に解ける。飛鳥や奈良は港に遠い盆地、水運にもさほど恵まれていない。奈良盆地、飛鳥が古代から日本の中心だったという歴史の定説とは真逆なのである。

歴史家が真脇遺跡などを忌避しがちなのは日本海が当時の先進地域であり、出雲のように別の古代王朝があったことに触れたくないからだろう。日本海沿岸の先進性は大和朝廷史観のパラダイムを超えるからでもある。

そこで『日本書紀』では第十代崇神天皇が四街道に軍を派遣したこととなり、やがて大和朝廷軍の阿倍比羅夫が七世紀に東北、北海道まで行って夷を大和に服属させたという物語となる。ならば蝦夷の反乱がもっとながく続いたのは何故か?は熱心に語られない。北陸地方に先進的な「高志国」(越、古志)が存在した。

「越乃寒梅」はまぼろしの銘酒、日本一うまい米は「コシヒカリ」。なかなか手に入らなかった。越前蟹、金澤の甲箱蟹と並んで富山は「高志紅蟹」。「越」といえば新潟県は上越、中越、下越に別れ、もうすこし地図を拡げると、京都に近い順に越前(福井)、越中(富山)、越後(新潟)。この「越」が『古事記』にでてくる高志(こし)、『日本書紀』の「越州」である。西暦七世紀中盤まで、ヤマト王権の統治が及ばない地域に「高志国」があった。海の交通路の関係から出雲とは深い縁があった。ツングース系海賊の来襲と戦い、何回か侵略を防いだ形跡

もある。

糸魚川のヌナカワ姫伝説は出雲のオオクニヌシに求婚されて嫁ぐ物語に『古事記』が置き換えた(拙著『葬られた古代王朝 高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照)。

往時、高志国は越前から加賀をまたぎ、新潟を超えて山形県庄内にまでの広域を意味した。福井県、富山県、新潟県には「高志」の名が冠せられた高校があり、越前蟹とならぶ富山名産は「高志の紅蟹」。富山市には「高志の国文学館」。福井市の名門校は「古志高校」。また地震で全国区となったのが新潟の山古志村だった。

高志国の存在は、たとえば長屋王邸宅跡から出土した木簡に書かれていた。律令制度のもと国司が古志の国々に派遣されたのは大化の改新以後である。