連載コラム(28)『日本の百霊域(パワースポット) 吉田松陰、下田のパワースポット
黒船の来航が大動乱の導火線をなったことは誰でも知っている。
ペリー来航「前夜」と「以後」に区別して日本の歴史は大きく画期された。図式的に見ると中央政府を反乱軍が倒し、新しい政体のもと、諸改革を実行したということで「明治維新」は世界史的にいえば「革命」と謂えるが、国家元首は不動だった。革命と違う重要なポイントだ。天皇制という国体は不変、というより国体はかえって明澄となった。だから革命ではなく維新なのである。
ペリーは日本に来る前に日本に関しての書籍を読みこなし、かなり該博な知識があった。日本の武士団が強靭であり、かつ名誉と礼節を重んじること。シナやジャワや越南のように簡単に武力で政体が転覆できないこと、つまり軍事力をもって植民地にすることは至難であることをペリーは知っていた。
日本では幕府と朝廷の二重権力構造があり、また日本の歴史の長さを知っていた。シーボルトが持ち出した日本の地図を元に、日本の海図も手に入れていた。海図は船の安全航行に必要不可欠である。こうして慎重で入念な下調べの上で、ペリーは艦隊を率い、南大西洋からインド洋をこえてマラッカ海峡を通過し、さきに沖縄と小笠原に寄港し貯炭場を確保している。
徳川幕府側もオランダを通じて米国が艦隊派遣を準備している情報を事前に把握していた。
国内には海防を急げと説く憂国の所論があちこちで盛んになっていた。幕末に林子平、会沢正志斉らが議論していたし、こうした主張は筆写され、あまねく全国の志士ら共通の危機意識だった。吉田松陰の水戸留学はこの会沢正志斉に会いに行ったのだ。
幕末維新の日本が直面したのは列強の圧力と英米露仏のパワーゲームだった。
こうした国際情勢の舞台裏を日本人はなかなか理解できない。近代史の捉え方は国連中心平和主義がこびり付いた日本の外交エスタブリシュメントにとって、前述のような歴史解釈は受け入れがたいからだ。
草もうの志士にとって重要なことは神国を守り、国体を護持し、主権国家の尊厳を守るということにあり、そのためにはいのちを擲ってでも闘うという西洋人には理解しがたい精神力だった。契約社会の西洋人にはそんなことをして何の実利があるのか、という発想の差違である。
ペリーが四隻の黒船を率いて下田に入った時、下田に停泊していたのはロシア艦隊で艦長はプチャーチンだった。直前まで長崎に寄港したという情報をもとに吉田松陰は佐久間象山から軍資金を調達してもらい密航しようと長崎まで疾駆した。しかし松陰が長崎についた時は既にロシア艦隊は出航したあとだった。
安政五年(1859年)にロシアはムラヴィヨフを艦長とする九隻の大艦隊を日本に派遣し、函館から江戸湾にその偉容を示威して徳川幕府を脅した。表向きの理由は「日露和親条約」の批准だった。実際には樺太全部をせしめ、北海道の半分を割譲させる企図があった。徳川幕府はこのとき、ロシアを牽制するためにアメリカに頼ろうとした。江戸には米国公使のハリスが、そして英国総領事のオールコックがいた。大国間のバランスを利用してロシアの要求を徳川幕府ははねつけた。幕府も無能政治家ばかりではなく先見の明をもった官吏は英米を梃子にバランス感覚をとることに優れていたのだ。
▼松陰の激烈な霊位は小伝馬町
吉田松陰は先師・山鹿素行の武士道を松下村塾と野山獄で熱心に説き起こし、武士道を綿々と講義していた。
山鹿素行は儒学を徹底的に批判したため、徳川幕府に睨まれ、赤穂藩に預けられる。山鹿素行死後、山鹿流陣太鼓を叩く大石内蔵助、赤穂浪士の決起には山鹿思想が濃厚に流れている。
『中朝事実』は山鹿素行の代表作のひとつ、尊皇攘夷の源流となる思想書である。ちなみに大石内蔵助が祭神の大石神社は赤穂城跡地に建立されている。ここも高輪泉岳寺とならぶパワースポットである。
長州藩の兵学師範の家を継いだ吉田松陰は嘉永三年(1850)、家学を修める目的で最初に肥前平戸藩へ行き、山鹿流兵学者の山鹿万介や葉山左内と交遊した。修業の身でありながら志士としての片鱗を十分に輝かせ始めた頃である。その後、肥後熊本を訪れて山鹿流兵学者、宮部鼎蔵と出会った。宮部はのちに京で池田屋事件に遭遇し、新撰組と死闘のあと切腹する。長州勢が激怒し、その恨みは戊辰のあと新撰組を預かった会津藩を朝敵として下北半島の斗南藩へ追いやり虐待するところまで引きづった。
吉田松陰は晩年に高杉晋作への手紙に認めた。
「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
これらのことから推察できるのは吉田松陰はまぎれもなく陽明学の徒であったことだ。
吉田松陰が金子重輔を伴って伊豆半島の南端、下田を訪れたのはおりから停泊中だったペリーの艦隊に乗り込んで、秘かに渡米する目的があった。
松陰は世界情勢を自らの目で見たいと考えていた。松陰二十五歳、佐久間象山の主宰した象山塾の「二傑」として知られた。佐久間象山の勧めでメリケンを知らなければ祖国は危機に陥るとひたむきに考え、ひそかにペリー艦隊と連絡を取っていた。佐久間象山が間にはいって手配した。
▼小さな祠で夜中をまった
このため下田は幕府の手によって厳戒態勢にあった。吉田松陰は金子重輔と、最初は蓮台寺温泉の医師だった村山行馬邸に匿われた。疥癬を煩っていた松陰は温泉が効くという誤報を信じて、村山邸の小さな風呂に毎晩浸かったが、直らなかった。
実際に村山邸跡を見学した折、そのわびしくも小さくて、そのうえ暗い風呂を案内して貰いながら聞かされた。夜中には近くにあった露天風呂にも浸かったという。松陰が下田に潜入したのは三月十八日で、同月二十五日には弁天島の小さな祠に潜伏した。当時の弁天島は陸続きではなく、この祠はいまも残っているが、入り口に吉田松陰渡海の図が掲げられ、その近くの公園には松陰と金子の銅像が建っていて沖を見つめている
安政三年に自宅幽閉の身となり、吉田松陰は松下村塾を開いた。これが松下村塾の嚆矢であり、二年と四ヶ月続いた。その講義が後の歴史を動かす原動力となろうとは当時誰も想像していない。
しかし明治維新の原動力は、この塾の十七名の塾生が中軸となった。
松陰のもとに桂小五郎(木戸考允)、久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、伊藤博文など、後に日本を震撼させる維新の志士が集ったことはあまりにも有名である。山口県萩市には松下村塾跡が保存されている。東京世田谷の松陰神社にはレプリカがある。
安政の大獄でふたたび取り調べの身となった松陰は安政六年七月九日、伝馬町に繋がれる。連座して佐久間象山も伝馬町に入れられた。佐久間は十年近くを謹慎しなければならなかった。
旧暦十月二十七日は新暦で十一月二十五日、三島事件の日でもある。松陰の享年は二十九歳。小伝馬町の刑場跡地には松陰の碑が立っている。ここが霊験溢れるパワースポットである。
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