『国史烈々』連載(16) 日本海側に漂着を繰り返した「渤海使」。これは遣唐使に匹敵
北九州から山口県北部、島根、鳥取から福井の敦賀港、三国、能登の福浦、越中の伏木、新潟は糸魚川、新潟港まで日本海に面する港町は縄文時代から江戸時代まで殷賑を極めた。
対馬海流にのって半島からの交易船や使節団と頻繁な交易、交流が筑紫、出雲、伯耆、丹後、若狭、越前から越中は氷見、伏木、魚津に港が並ぶように越後の糸魚川にかけて存在していた。直江津の北には「出雲崎」という港町も残る。
遣隋使・遣唐使が教科書に何回もでてくるのは大和朝廷史観に立脚するからで、反面、軽視されているのが「高句麗使」と「渤海使」。また「新羅使」に関しては無視である。
前者の高句麗使節が古志(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、出羽)の海岸に着岸した記録は四回。遣渤海使は八世紀から九世紀まで十三回の公式記録のほか、二十回前後の非公式な来航がある。
これらは出羽あたりから隠岐までの日本海沿岸各地に来着、もしくは漂着した。特に能登、加賀、越前にやってきた。
律令制度のもと、来朝使節は太宰府経由と決められていたが、当時の航海術では、どこへ海流で流されるかもしれない。だから日本海側の随所に迎賓施設を設けた。それらの痕跡が能登の福良津、敦賀の松原だった。敦賀の松原海浜は景勝地として有名で筆者も歩いてみたが、迎賓館跡は影も形もない。
『福井県史』における「古志」の記述をみると、「第二節 若越における古代文化の形成」の個所に「若越と日本海文化-渡来文化と地域間交流」という説がある。
曰く。
「海外からの渡来人や文化に関しては、ツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐)の渡来説話がある。かれは意富加羅国の王子で、初め穴門(長門国西南部)に至り、そこから北つ海から廻って出雲国を経て、角鹿(敦賀)に着いたという(編一四)。この伝承は有名な天之日矛の渡来説話から派生したという説があるが、それは採らない」として、『敦賀市史』(通史編上)は次を続ける。
「ツヌガアラシトが『額に角負いたる人』と表現されるところから、日本海域に分布する角坏とのかかわりをみる理解の仕方もある。(中略)敦賀の地には、新羅系の式内社も散見する」
この説話は、敦賀に相次いだ朝鮮半島南部からの渡来人とその子孫が定着し発展したことを示唆する」
敦賀郊外の常宮神社へ行って確かめた。
「新羅鐘」が宝物庫に収められていた。常宮神社は神功皇后が新羅征伐に敦賀から出港したという伝承のもと、仲哀天皇、神功皇后、そして応神天皇を祀る。境内社には武内宿弥を祭る中規模の祠がある。
この四神(仲哀、神功、応神、建内宿彌)のセット、まさに日本書記の記述通りだ。
いわゆる「縄文海進」は氷河期の終わり頃から始まり、ピークが6500年前から6000年前、縄文中期である。
当時の「世界史」的パースペクティブで言えば、日本にとって「外国」という認識は中国大陸と朝鮮半島、そして沿海州である。
近世の感覚での「外国」は、南蛮船の渡来が十六世紀、信長の時代である。太平洋航路が拓けたのは十九世紀。それまで欧米は日本の思考体系のなかには組み入れられていない。
縄文人は南方の海洋民族系とシベリアからの北方系にわかれ別々に日本に流入した。人種が異なるように、海洋民族系は台湾、沖縄を経由して対馬で分岐し、九州から四国南部、和歌山、そして黒潮に乗って千葉に漂着して定住した。千葉県の墨古沢遺蹟は3万4000年前、薩摩の上野原遺蹟は7500年前である。
他方、朝鮮半島へ流れ着いた南方系縄文人は百済、任那にも住み着いた。これが魏志倭人伝のいう「倭」である。大和朝廷が任那府を置き、百済救援に国力を傾けるほどの支援をした絆の基本にある。百済は日本の保護国だったことは前にも述べた。
シベリアかマンモスを追ってきた狩猟民族系の縄文人は北海道から東北地方へと南下した。「世界遺産」となった北海道・東北縄文遺跡群の分布をみれば明らかで、この両方の縄文人が何処かで融合した。それが古事記に書かれた山幸彦、海幸彦の古代史神話となったのではないか。海幸彦と山幸彦兄弟の諍いは一本の釣針が原因で、釣りに不慣れな山幸がそれをなくして、「同じ針でなければ許さない」と傲岸な兄に、途方に暮れる山幸が海神に引かれて「竜宮城」へいく。そして海神の協力で何年か愉しい時間を過ごして帰還し、
海幸をやっつけるという筋立てだ。
これは大和朝廷が隼人に勝ったことを寓話化したものとする解釈があるが、海幸と山幸の兄弟喧嘩は縄文人と弥生人が対立から宥和へ至った過程を象徴する神話に置き換わっているのである。
それにしても「日本海文化圏」の重要性が歴史学で軽視され続けた。
三内丸山遺跡から糸魚川の翡翠、信濃の黒曜石、岩手県久慈の琥珀が出土しているように交易は想像以上に盛んだった。
漆、アスファルトなども北海道と東北の縄文集落で交易があったことは近年の考古学で証明されている。漆は中国から渡来したのではなく九千年前に北海道で産出されていた。国内航路ばかりか、北九州は対馬を経由して半島との行き来があり、日本海沿岸は半島北部(高句麗や渤海国)との交流、交易、使節の交換が盛んだった。
渤海国(698〜928)はいまの中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄えた。唐からも「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたものだった。十世紀に契丹(遼)に滅ぼされた。
前にも書いたが日本海沿岸地域が、古代では近畿地方よりはるかに先進地域だったということである。
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