東アジア歴史文化研究会のブログ

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『国史烈々』連載(20) 大海人皇子、少数で吉野を出発、不破関を先におさえた(壬申の乱の続き)

東アジア歴史文化研究会

前回、壬申の乱に触れたので、その続き。

近江朝を倒した天武天皇は飛鳥浄原宮に皇居を戻した。多くの制度改革に着手した。また通貨「和同開珎」を発企した。シナとの交流の絶縁は三十年に及ぶ。天武帝の最大の文化史的業績は古事記、日本書紀の編纂を発企し、万葉集の編纂に熱意を示したことである。

天武天皇はわが国の文学の礎を築いた偉業を遺した。この功績を正面に捉えるべきであろう。

天武帝が国風を興隆させ、唐風を排除しようとした日本文化確立運動の推進者だった。それが壬申の乱の本質である。

古代史最大の内乱=「壬申の乱」は歴史的にいかなる意義をもつか? なぜこの命題が古代史学界では論じられず、微細なことに論点が矮小化されているのだろうか。

松本清張ら左翼作家たちは壬申の乱を「皇位簒奪」と捉えている。まさに誤謬錯覚で、まず大友王子は即位していなかった。空白の皇位、天武天皇の軍事行動の目的は第一に「からこころ」に支配されつつあった近江朝を覆滅させ、日本のまつりごとに「大和ごころ」に戻すことにあった。皇位簒奪ではない。

十四世紀の後醍醐天皇のブレーンだった北畠親房が「神皇正統記」をあらわして以後、史観の転換があり、後年の朱子学導入で近江朝からの皇位簒奪と受け取る壬申の乱の総括が行われた。まさに後智恵である。さらに幕末維新では皇国史観が暴発して、大友王子に急遽「弘文天皇」を追号し、御陵を市役所の裏に急遽造営し、弘文天皇を皇統譜に加えたのだ。弘文天皇の諡は明治三年のことである。

当時の国際情勢がどうなっていたのかと言えば、兄の天智天皇五年(666)年、唐と新羅連合軍は高句麗に攻め入った。このため高句麗は日本に救援を求める外交使節を派遣した。『日本書紀』には「二位玄武若光」の派遣が記されている。二年後に高句麗は滅亡した。

このため帰国を諦めた若光は大和朝廷につかえた。『続日本紀』には大宝三年(703)年、「従五位下の若光に王の姓を賜う」とある。

半世紀後の霊亀二(716)年五月、大和朝廷は駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野に居住した高句麗人およそ千八百人を武蔵国に移して「高麗郡」を作らせた。この地には高麗神社が創建された。こんにちも多くの参詣客を集めている。

▼天智vs天武は額田女王をめぐる愛憎が本質だった??

壬申の乱の概要を改めて眺めよう。天智天皇十年(西暦671年。この期間だけ元号制定がなかった)、迫り来る死を悟ったかのように天智天皇は大友皇子を太政大臣とした。蘇我赤兄を左大臣に中臣金を右大臣に任命した。中臣鎌足にはそれ以前に「藤原」の姓をあたえ藤原一族の尊重を示唆し、ついで同母弟の大海人皇子を招いた。

大海人皇子は皇位継承を謝絶して出家を申し出るとともに、倭姫(天智の后)の即位による大友皇子の輔政を提案した。そしてただちに大海人は宮殿内仏殿において剃髪、翌々日には吉野での隠棲を願い出て武器を差し出し、吉野宮へ入った。伴をした者は僅かに四十数名、しかも到着後半数を飛鳥へ帰した。

なかには「虎に翼をつけて解きはなったようなもの」と批判の矢を向ける者もいた。まもなく黄泉の国へ赴くと自覚していた天智帝は五人の重臣たち(犬養五十君、谷塩手、右大臣中臣金等、左大臣の蘇我赤兄、蘇我果安)と大友皇子を枕元によんで誓いを立てさせた。

こうした天智vs天武の兄弟対立は皇位継承をめぐる確執でもあるが、巷間では額田女王をめぐっての愛憎劇が伏線だという妖しい解説がある。

小説家や漫画家たちは、むしろこの視点で物語を書くから余計に人口に膾炙する。たしかに額田女王を最初に愛人としたのは弟君の天武であり、子もなした。その後、天智天皇の室に迎えられ、宮廷歌人として活躍した。当時、寵妃を取り替えたり、部下に下げ渡すのは常識だった。谷崎潤一郎と佐藤晴夫が妻を取り替えた『事件』を猟奇的だと近代人は認識するが古代では日常茶飯の出来事だった。

天才詩人、額田女王は多くの詩歌を遺したので、壬申の乱前後の社会の動きや世評なるものの移ろいが分かる。

671年師走三日、天智天皇はみまかった。四十六歳だった。翌(672年)、所要で美濃に旅した舎人の朴井雄君は山科に天智天皇陵造営のためとして美濃と尾張から事実上の徴兵が進んでいる実態を吉野に報告した。各地に近江京からの監視団が存在し、また宇治橋では、吉野への食糧搬入が遮断されているとの報告もあった。つまり近江側は吉野遠征の準備にはいっていたのだ。

天智崩御から半年を経過した。

大海人皇子は忽然として舎人を美濃に派遣し、不破関の封鎖を実行する。半年の間に各地に間諜を入れ、機を窺っていたとしか思えない敏捷な動きだった。

六月二十四日、倭古京留守役の高坂王に駅鈴を要求したが断わられた。これを機に吉野を脱出し、伊勢方面へ向かった。

高坂王が近江に通報するのは時間の問題だったからだ。

同時に大海人は大分惠尺を近江に走らせ高市・大津両皇子に急ぎ近江京を抜け出し、合流を要請した。天武天皇のふたりの皇子は事実上の「人質」だから一刻も早く脱出させる必要があった。

舎人の黄書大伴を飛鳥にいる大伴馬来田・吹負の兄弟に遣わし、挙兵の予定・合流の日時場所を告げさせた。連絡を終えた馬来田はすぐに大海人皇子の隊列に追いついてきた。大伴吹負は飛鳥に留まり、以後、獅子奮迅の武功をあげるだろう。

尾張へ向った大海人軍には途次、次々と地元の豪族たちが合流し始めた。夜半、伊賀に入り駅家を焼いて合図とし、地つきの豪族に合流を呼びかけた。伊賀評造らが合力した。

他方、近江朝廷では大海人皇子の吉野脱出の急報を得た大友皇子が群臣を緊急に招集し対応を協議した。援軍要請のため使いを東国、倭古京、筑紫、吉備に派遣することを決めた。

結局、倭古京以外の豪族は参加を見送る。尾張と美濃はすでに不破関が封鎖されていたため大海人皇子側に味方せざるを得ない情勢となった。関所封鎖が壬申の乱緒線の勝負を決めたと言ってよい。

六月二十五日、大海人皇子は未明に刈萩野で休息し、朝飯をとった。高市皇子が積殖山口(柘植)で合流に成功した。鈴鹿で国司の三宅石床・三輪子首、湯沐令田中足麻呂の出迎えを受け、鈴鹿山道を封鎖した。帯同した鵜野皇女(後の持統天皇)の疲労が甚だしかったため休息をとった。二十六日、跡太川の河岸で天照大神を伊勢方向に遙拝した。神懸かりの儀式を行い、軍の士気を鼓舞した。

ここへ近江脱出に手間取った大津皇子が合流した。村岡男依が駆けつけ、不破関封鎖の報告を受けた。ただちに高市皇子を将軍に任じ不破の関へ先発させた。東海道と東山道へ援軍派遣要請の使いを派遣し、桑名評家に宿営した。

現在、不破関跡には資料館が開設されており当時の関所の想像図や関所跡の石碑などが見学できる。

その先が急斜面の崖となっていて、守るには都合が良く、攻めるには難所、すぐ近くにまで大友軍が押し寄せたが、不破関の奪回はもはや不可能だった。附近の和暫で激しい戦闘があった。大友王子側の敗色が濃くなった(この項、続く)。