連載コラム(17)『日本の百霊域』(パワースポット) なぜ孝謙天皇宮と道鏡の祠が常磐の国に?
茨城県小美玉市竹原へは東京駅から特急「ときわ」で一時間十分ほど、JR石岡駅(特急「ひたち」は停車しない)で降りて、駅前からタクシーを拾った。
運転手は「孝謙天皇宮と道鏡の祠? ここで長年(タクシーを)やっとるけど行ったことないですよ」
筆者は簡単な手書きの地図を見せ、また運転手は携帯電話で位置を確認すると、二つとも地図の明示があった。便利な時代になったものである。
歴史的遺物を探す旅は往々にして道に迷うことが多いから、運が良かった。
竹原小学校の付近に常駐禰宜のいない椿山稲荷神社(永禄二年創建)がある。古色蒼然たる社で、誰もいない。その本殿の右奥に道鏡の小祠があって標識がある。この道鏡の祠は付近に鎮座していたものを昭和四十年代になってから椿山八幡神社の境内へ遷座した経緯がある。床下には伝説に添って石棒(ファロス)がどしんと安置されていた。だれも来ない場所。ところが霊気を感じた。
この祠から空港アクセス道路と旧水戸街道の交差を越えて小高い丘を登ると、小さな小さな孝謙天皇宮がある。しかしミニチュア神社とはいえ、石碑と看板がある。
地元の人々が黙々と二人に敬意を表して資金を出し合い、労働力を提供したのだが、孝謙天皇御綾は奈良市西大寺の北に宮内庁が治定した「高野天皇綾」があり、また道鏡塚は左遷された下野薬師寺のそばの龍興寺の境内にある。
なぜ常陸の国(茨城県)に道鏡の祠と孝謙天皇宮があるのか?
地元の伝説では、竹原の人々が集団訴訟に踏み切ったときに、道鏡が竹原の庶民に有利な解決をしてくれた恩義からだという。続日本紀にも古事談にも、そういう経緯は一切無いから、地元だけに伝わる稗史だろう。
だが、下野薬師寺別当に左遷されてからの道鏡が何をしたか、あらゆる史書に記録がない。
太政大臣禅師、法王と、権力のトップにのぼりつめた道鏡だが、法王は律令にない制度ゆえに左遷と同時に自然消滅した。しかし道鏡の下野薬師寺別当とは関東一円の寺社を統括する強い権力が付帯した「寺領長官」のような権威あるポストだった。当時の寺領の争いの解決にあたったことは想像がつく。
下野にある龍興寺境内にのこる道鏡塚の案内板には「地元では慕われた」と書かれているのだ。
それにしても道鏡の小祠の床下に石棒とは意外だった。おそらく遷座される際に後世の作り話の道鏡巨根説に拠ったのだろう。
ちなみに日本で出土した最長の石棒は長野県の千曲川支流、北澤川に立っていた高さ235センチ、幅25センチの長大なもの、風雪被害で腐食が激しくなり、令和四年に屋内へ移された。令和五年現在、非公開なので見に行けないのは残念、複数のレプリカを製作中で、また公開される日がくるだろうと期待している。世界を見渡せば、石棒ならアイルランドの「タラ王の丘」が有名だろう。
ストーンサークルは英国のストーンヘンジ、マルタ島の古代の祭祀の場所と想定されるストーン構造物などがある。日本でも秋田県などにストーンサークルが残っている。
石棒は信濃の北沢のほか、とく長野、山梨の縄文遺跡から相当数が発掘された。
「ファロス崇拝は縄文時代の昔、石棒の出現にはじまりました。それは人々の生命力崇拝に支えられた、今日の神道や仏教、儒教よりも遙かに古く日本に生まれた信仰でした」(平野純『ファロスの日本史』楽工社)。
ファロスとは男根である。石棒に限らずチカモリ遺跡や真脇遺跡の高い木々のサークルは、高さ、強さ、活力の源泉として古代人が信仰したのである。
ファロスの象徴という嘘宣伝が後世に拡大したのが道鏡巨根説なのだ。
孝謙天皇は「三仏の奴」と自己規定した聖武天皇の愛娘で史上初めて女性皇太子となった。こちらのほうが深刻な問題で、「三仏の奴」という言葉である。
「仏教に淫した」聖武天皇と娘の孝謙天皇は、自らを仏陀の下僕と表現し、あろうことか古代神道より仏教を上位においた。
本居宣長はこう批判した。
「これらの御言は天神の御子尊の、かけても詔給うべき御言とはおぼえず、あまりにあさましく悲しく、言挙るも、いと由々しく」(宣長全集第七巻)。
▼崇仏路線は国民の賛同をえていたわけではなかった
日本には古代よりの信仰があり、古代神道は経典もなければ布教もしないから、当時の「文明開化」のごとく仏教が朝廷に猖獗した。
保良宮で休養していた孝謙上皇を秘密の宿曜療法で治療した道鏡はセラピストだった。仏教思想に淫していた孝謙が道鏡を寵愛するようになったのは道鏡のファロスが大きくと強かったのではなく、仏教思想を体現する指導者としての尊敬からである。ふたりに性愛関係はなかった。
しかし朝廷の姿勢が激変し、権力構造に道鏡へのシフトがおこった。やがて藤原仲麻呂の叛乱となって一族は殲滅された。爾後、淳仁天皇を廃帝とした孝徳上皇は称徳天皇として重祚するや、仏教を神道より上位に置く崇仏国家を明示し、道鏡を太政大臣禅師に、はては法王として、暴走を始めた。
現代史家は『藤原仲麻呂の乱』ではなく、あれは「孝謙天皇のクーデター」と評価する。
神祇界ばかりか、皇族、豪族の多くは、崇仏国家路線に賛成したわけではなかった。だから称徳天皇の崩御後、道鏡はなんの政治力もなく左遷され、天智系の光仁天皇が即位するとまつりごとを本来の道に戻した。
道鏡巨根説がうまれたのは、それから三百年後であり、『日本霊異記』『水鏡』など鎌倉・足利から徳川時代へのフェイク情報が席巻したのである。
江戸の川柳たるや「両の手で孝謙帝は御握り」とか、「道鏡に根までいれろと詔」「弓削形はきらしましたと小間物屋」。
たしかに傑作といえば傑作である。
道鏡を悪く言って、宇佐神宮の偽の神勅などをでっち上げ失脚させる陰謀は藤川百川らの仕業である。
いかにして偽の歴史が普遍的となって道鏡がいまもおおきく誤解されたか。
やはり古代史は謎だらけだ。
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