東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう 

早坂隆『教科書が教えない戦争の話 日本人として知っておくべき大切な歴史』(ワニプラス) 歴史上、活躍した軍人や知識人、技術者の物語を忘れてしまった日本人 あの無私の精神、日本人の魂はどこへ行ったのだ

東アジア歴史文化研究会

現実主義的な安全保障政策が広く支持されるようになり、やっと「普通の国」になりつつある日本。しかし戦争に関しては、未だに戦後レジームの怪しげな史観に縛られたまま大和魂は浮遊している。


極悪人のように評される旧軍人だが、その多くが家族のため、地域のため、そして国のために命を賭して戦った。純粋な魂に溢れていた。


本書には台湾の教育のために奮闘しながらも蕃族に殺害された六人の若い日本人教育者や、農地開拓に命を懸けた八田与一、戦争に散ったオリンピック選手、神風になって特攻した朝鮮人、そして東京裁判でA級戦犯の烙印を押された東条英樹らと、その子供達の八十年の歳月を追う。


子々孫々のために戦った人たちのことが、子供たちの読む教科書でほとんど触れられていない。本書はいまや歴史の陰に隠れてしまった先達の生きざまを、丁寧に描いたノンフィクションである。


さて、評者(宮崎)の知り合いがひとり、本書に登場する。アンガウルで雄壮果敢に闘って奇跡の生還をとげた船坂弘である。引き揚げて、船坂は渋谷に書店を開業した。それが大盛堂書店である。

船坂は最初、満州国の最北チチハルへ送られた。そこから転戦して南方パラオ諸島のアンガウルに。リン鉱石が採掘されるが孤島であり、ましな食糧もない。

「昭和十九年(1944)9月15日、アメリカ軍の第一海兵師団がパラオ諸島のペリリュウ島への上陸作戦を開始(中略)。猛烈な艦砲射撃である。その砲弾の数は、一日だけで五万七六〇〇発にも及んだ」(59p)

次いでアンガウルへの強襲が始まった。

船坂は分隊長として先頭に立ち、「戦友たちはバタバタと倒れていく。ちぎれ飛ぶ肉体と吹き出す鮮血。死にきれない重傷者たちのうめき声。それでも船坂は、軍歌を大声で唄って部下を鼓舞しながら、腰を屈めて前進した」、「至近弾の炸裂によって左大腿部に二〇センチほどの裂傷を負った。軍医から渡されたのは薬ではなく一個の手榴弾だった」。

その後も重傷を負い、最後に手榴弾で自決を試みる。が、不発弾だった。そこで船坂は米軍の司令部テントへひとりで突撃する。

『無数の銃弾が襲う。船坂は左頸部に激しい痛みを感じ、そのまま倒れて気を失った(中略)。三日に亘って意識不明の状態だったが、アメリカ軍側の治療によって九死に一生を得た。アメリカ軍の軍医は、『これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ』

復員後の船坂の決意は国民の知識や教養を高めることが戦争を回避出来ると信じ、渋谷で書店経営を始めたのである。

書かれていないことがある。

その後、船坂は戦記を書いて、三島由紀夫の推薦を貰った。御礼にと三島に進呈したのは名刀「関の孫六」だった。そう、あの三島事件のとき、三島が自決に用いた日本刀である。

評者は二回ほど船坂の自宅に伺ったことがあるが、床の間には数振りの名刀が飾られていたので見せて貰った。武器を手入れしながら船坂の風貌はサムライの風情があった。


(下記に船坂氏の長男が綴った珍しい回想記があります↓)
https://president.jp/articles/-/113649?page=4