先崎彰容『本居宣長 「もののあはれ」と「日本」の発見』(新潮選書) そもそも本居宣長の本家は北畠家に仕えた武士の家系 契沖に傾斜、「やまと」は「倭」でも「夜麻登」でもなく、「日本」である
宣長とみたら、直ぐに買ってしまうのだが、ツンドク2年に及んだ。宣長を論じた書籍は山のようにあるが、白眉は小林秀雄だろう。
しかし現代日本人は宣長の名前さえ知らず、そもそも日常生活における日本語は果てしなく劣化し、風雅も優美も遠景に下がり、横文字と意味不明の新造語が氾濫している。AIが書いた小説がなにがしかの文学賞を獲得するという状況にあって、本書を読む読書人は、かなり限定されるだろう。
本書が企図しているのはカラ(唐)でも西洋でもない。日本である。
宣長は万葉より古今和歌集に重きを置き、源氏物語を縦横に論じ、日本書記より古事記を論じた。宣長の本髄に迫る労作である。
宣長は小津氏の出で、本居姓を名乗ったことに格別の意味はない、というのが従来の国文学者の主流だった。小林秀雄でさえ「小津という商家の屋号を捨て、本居の姓を名乗り、宣長と改名し、春庵或は舜庵と号するに到ったのは、医者に志したからである」と簡単に記した。
先崎氏はそうではない、という。
本家の本居家が武士の家系だったからで、九戸の追討で戦死した本居武秀の四代目にあたるのが、宣長なのである。そもそも本居家は北畠家に仕えた武士の家系である。浪人のあと蒲生氏に拾われ、秀吉の小田原攻めに参戦し、蒲生氏の会津国替えに際しては弟がついていった。兄は伊勢に残った。
宣長は戦死した武秀の死に場所を知人に聞き回った。「この過去への情熱」がその後の「宣長の人生そのものに深い影響を与えた」(45p)。
余談ながら評者(宮崎)九戸城跡を見学して、その広さに驚いたことがある。地元の人の話では、「秀吉がここまで来た」という言い伝えもあるという。史実に照らすと秀吉は九戸へ行かず、三成を派遣している。
壮絶な戦いは東北武士最後のつっぱりでもあって、あのアテルイの意気込み、成り上がり政権なんぞなにするものぞ、とその熱狂を感じさせるのが九戸城の戦いだった。
さて、若き日、京に遊学し医学を学んでいた頃の本居宣長にとって「古代憧憬は飛鳥奈良時代ではなく、平安京以後(中略)、古事記の時代ではなく、源氏物語の時代」だった。
宣長の歌論は朱子の詩論の影響がみとめられているにせよ、「単なる記号や情報として扱われている限り、言葉は客観的事実を書き留める道具にすぎない。恋であれ死であれ、私たちはそれを頭で理解し、理路整然と説明することも出来るかもしれないが、それを『我が事』として感じ、こころの最も柔らかな部分で体感することは、実はとても難しい」(98p)。
古代の価値観は中世以後、とくに近世において変化した。近親相姦とか不倫とかは仏教・儒教が輸入されて以後である。それまで「不倫は文化」であった。
「それが神道ではまったく道徳的に問題がない」、つまり「儒教や仏教とはまったく異なる倫理観、人間関係があったことを国学の祖契沖が発見した。その契沖に傾斜してゆくのが宣長である。
「やまと」は「倭」ではなく、宛て字の「夜麻登」でもなく、「日本」であるとし、孝徳天皇の時から『日本』をしてきたのだと解釈するのが宣長である。
正式にやまとを日本に呼称をかえる天武天皇の時代へと向かった。
先崎氏はこう言う。
「とりわけ六七二年の壬申の乱に注目すべきである。大友皇子を制圧し即位した天武天皇は、みずから秦を打倒した漢の高祖になぞらえ、国家の正史をつくる作業を命じた。ここでも天武天皇の脳裡には普遍的価値基準たる、大陸の制度が意識されている。またさらに、太陽信仰のもととなる『日御子』思想などを持っていた天皇を中心に臣下たちの間でも、国際社会を意識した『日本』という自国意識が高まってきた。こうして国内で徐々に形成されてきた日本が対外的に使用されたのが、大宝の遣唐使だったのである」(285p)
このあと、もののあはれに議論が続くが、もう一箇所、宣長の恋について、なぜ前妻とは半年で別れ、すぐに未亡人(京遊学時代に見そめていた)と一緒になったのかの細かい経緯が述べられていて、「おっと、そうだったのか」と教えられた。
このブログへのコメントはmuragonユーザー限定です。