東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

平井宏治『歴史は語る経済安全保障』(ワニブックス)  白村江の戦後講和、唐から郭務綜がやってきた 対馬、壱岐の防備、狼煙台システム、そして水城を観察した

東アジア歴史文化研究会

テクノロジー安全保障論の専門家として知られる平井氏の新著である。白村江敗戦から江戸の鎖国が管理防衛であったこと、半導体、AI戦争で日本の失敗を分析し、どうすれば日本は生き残れるかという国家目標の再建への方向性を探る。

歴史は警告する。国益を失った経済はやがて国を亡ぼす、と。

ローマに立ちむかったカルタゴはなぜ滅びるに到ったか、本書で展開される歴史の教訓はヒッタイトからベネチアへと思索の対象は広がるのだが、この稿では紙幅に限りがあり、天智天皇の大失敗=白村江の敗戦についての検証に絞り込む。

評者(宮崎)は嘗て白村江の現場と言われる韓国の海岸に行ったことがある。地形がよく飲み込めなかった思い出がある。


白村江派兵は天智天皇の情報収集を怠ったことと、新兵器の出現に対応出来ず、百済復興という情緒的な夢がひとり歩きした結果である。要するにインテリジャンス戦略で負けたのだ。 

日本が百済復興を意図し、新羅・唐の連合軍とたたかって海戦で敗れた特筆すべき“大事件”だったが、平井氏が詳細を論じるのは「戦後」である。


敗戦の影響は甚大だった。


第一に夥しい難民と高官を移民として日本が受け入れたことにより政治と文化の変質である。唐の特使・郭務綜を含む600人と百済系官人の1400名(事実上の難民)が47隻の船団でやって来た(671年)。


第二に敗戦後の防衛システムが鉄壁の構えを見せていたこと。郭務綜は対馬、壱岐の防備、狼煙台システム、そして水城を観察した、防衛システムの確かさを確認した。


郭務綜の目的はふたつあって、まずは戦後の日本の防備体制の偵察と戦後賠償、そして難民1400名を日本に押しつけることだった。

現在、日本の外国人登録は412万5395人、日本の総人口に対する比率は3・4%になる。往時、百済難民を2000人として計算すると、当時の人口比では0・05%である。

「移民によってどんな問題が生じたかといったことは(『日本書紀』に)かかれていません」。が「その後、半世紀を経ずして日本が天平文化、あるいは唐風と呼ばれる文化期に入っていることは事実です」(55p)


外国にかぶれてしまったのである。

とくに「称徳天皇は、出家して菩薩戒を受けた天皇という、それまでの天皇とは異なる宗教的立場を強く打ち出しました。伝統から逸脱して仏を天皇系の上に置いてしまった」

つまり仏教に染まり伝統をないがしろにし、日本固有のなにものかの喪失は、その後、二百年も続いたのである。

歴史の教訓とするべきは「敗戦から国風文化が形成されるまでの二百年に及ぶ文化変容を見れば、大規模な人的文化的交流が社会に長期的な影響を与え得ることは、歴史の教訓の一つ」であるとする(64p)。

移民問題は安全保障の観点から考え直す必要がある。