講演レジュメ「日本は如何にして誕生したのか―東アジア古代史から見た日本」(宮脇淳子氏)

第108回東アジア歴史文化研究会 (2014年7月29日・常円寺)
東洋史家・東京外国語大学講師 宮脇淳子氏
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日本は如何にして誕生したのか―東アジア古代史から見た日本
1 前漢の武帝が朝鮮半島に置いた四郡

紀元前221年 秦の始皇帝が天下を統一
「シナ二千二百年」(「秦」が支那、Chinaの語源)
この頃 日本列島は弥生時代(日本列島は古くから人口が多く、砂金・銀・銅が豊富だった)
前108年 漢の武帝が朝鮮王国を滅ぼし、楽浪(らくろう)郡(ぐん)、 臨屯(りんとん)郡(ぐん)、玄菟(げんと)郡(ぐん)、真番(しんばん)郡(ぐん)の四郡を置く(左図参照)。
朝鮮半島の最南端に置かれた真番郡に一万を越す漢人が入植したのは、日本列島の市場の開拓を目指したのに相違ない。日本列島にシナ商船が定期的に来航するようになり、土着民が船着場に集まる。
前82年 武帝が死去し真番郡は廃止される。
日本列島の貿易は小白山脈の北の楽浪郡の管轄に。
「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す」『漢書』「地理志」
(地図出典:岡田英弘『倭国』中公新書)
2 後漢時代の「倭国」
57年「倭の奴(な)国(こく)が貢を奉じて朝賀し、使人(しじん)は自ら大夫と称す。光武(こうぶ)帝(てい)は賜(たま)うに印綬(いんじゅ)をもってす」『後漢書』「東夷列伝」(日本列島の入口の博多の酋長を、光武帝は倭人の代表に選び、日本列島の倭人の貿易の管理事務を委託した。「漢委(かんい)奴(ど)国王(こくおう)」はいわゆるシナ名誉総領事)
157年 後漢の人口5千6百万人が都市に集中、互助組織から宗教秘密結社に発展。
184年 後漢で黄巾(こうきん)の乱:世界の終末と救世主の降臨が近づいたと信じた太平道の反乱。続いて将軍たちの反乱が起こり、後漢が滅亡し、魏・呉・蜀の三国時代になる。
3「魏志倭人伝」は『三国志』『魏書』「東夷伝」倭人の項のこと
『三国志』は、265年に建国した「晋」という王朝が正統の政権であると主張することを目的として、当の晋の政府に仕えていた陳(ちん)寿(じゅ)が書いたもので、政治色が強い。東北アジアは晋朝の帝室の祖先の地盤であり、邪(や)馬(ば)台(だい)国の女王卑弥呼(ひみこ)も彼らがシナ大陸の内政で権力を握るのに利用した道具だったため、いかにも遠方の大国の君主のように仕立て上げられた。
239年 シナの三国の一つ魏が、邪馬台国の女王・卑弥呼に「親(しん)魏(ぎ)倭(わ)王(おう)」という位を与える。
249年 卑弥呼のスポンサーである魏の将軍、司馬懿(しばい)が、クーデターで魏の実権を握る。
266年 倭の女王の使が晋(しん)に朝貢(この後413年まで倭人はシナの記録に出てこない)。
4「魏志倭人伝」の道里と方向と諸国の戸数の謎
1) 帯方(たいほう)郡(ぐん)から倭にいたるには、海岸沿いに航行し、南あるいは東へ向かい狗(く)邪(や)韓国(かんこく)まで七千余里
2) 一海を渡ること千余里で対馬(つしま)国 人口:千余戸
3) 南へ一海を渡ること千余里で一(いち)支(し)国(壱岐) 人口:三千余家
4) 一海を渡ること千余里で末廬(まつら)国(唐津) 人口:四千余戸
5) 東南へ陸行すること五百里で伊都(いと)国 人口:千余戸
6) 東南へ百里で奴(な)国 人口:二万余戸
7) 東行すること百里で不弥(ふみ)国 人口:千余家
8) 南へ水行二十日で投(とう)馬(ば)国 人口:五万余戸
9) 南へ水行十日、陸行一月で邪馬台国に至る、人口:七万余戸
(帯方郡から女王国まで一万二千余里)
つまり方向が南へ南へ進んで、邪馬台国の位置は「その道里を計れば、まさに会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし」とある。これを一里三百歩、約450メートルで換算すると、韓半島の中部の帯方郡から七千余里の半島東南端の狗邪韓国は小笠原諸島あたり、そこから五千余里の邪馬台国はグアム島あたり、韓半島はインド亜大陸ほどの巨大な陸地になってしまう! また、邪馬台国の人口七万余戸はたいへん多く、当時の魏の都である洛陽の人口でも十万戸以下だったから、遠方の大国に仕立て上げようとする作為を感じる。
5 「親魏大月氏王」と「親魏倭王」卑弥呼
(地図出典:岡田英弘『日本とは何か』藤原書店)

『後漢書』「西域伝」には、中央アジアのクシャン王国は「大月氏国」と呼ばれ、その都の「藍(らん)氏(し)城(じょう)」(カーピシー)は、後漢の都の洛陽を去ること一万六千三百七十里、戸数十万、口数四十万、兵力十余万、と出てくる。魏の西方担当は、司馬懿のライバルの曹(そう)真(しん)だった。
229年 大月氏王・波調の使いが来訪したのに対し魏は「親魏大月氏王」の称号を贈った。
司馬懿は当初南方担当だったが、呉と同盟した遼陽の公孫(こうそん)淵(えん)の討伐に成功し、東北アジア一帯を地盤とするようになった。魏では司馬懿の面子を立てるため、司馬懿の勢力圏の東北方面からなるべく遠くの酋長を選んで、洛陽に表敬使節団を派遣するように働きかけた。
239年「親魏大月氏王」と同格の称号「親魏倭王」が、邪馬台国女王卑弥呼に贈られた。「魏志倭人伝」が伝える洛陽から邪馬台国への距離は、洛陽から大月氏国への距離とほぼ同じ。
司馬懿はのちに曹真の息子曹爽(そうそう)を倒して晋朝を建国、晋朝の政府に仕えていた陳寿が『三国志』を書いたので、『魏書』に「烏丸・鮮卑・東夷伝」はあるが、「西域伝」はない。
6 推古天皇と聖徳太子はシナの史料に出てこない
589年 北朝の隋が南朝の陳を併合、2世紀の後漢以来久しぶりにシナ全土が統一される。
600年 阿毎(あま)多利思比孤(たらしひこ)阿輩鶏彌(おほきみ)という倭王(男)の使者が隋の都の大興(西安)を訪問。
608年 多利思比孤の使節が隋に朝貢し「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無(な)きや」という国書を隋の煬(よう)帝(だい)に手渡す。(720年に完成した『日本書紀』では、607年に女の推古天皇が小野妹子を「大唐」に遣わしたというが、倭王は男で聖徳太子でない)
7 「日本国」誕生

660年 シナを統一した唐軍が新羅(しらぎ)と同盟し海上から朝鮮半島南部に上陸、倭王の同盟相手の百済(くだら)王を滅ぼす。倭のタカラ女王(斉明天皇)が倭軍を朝鮮半島に派遣する。
663年 倭の艦隊が白(はく)村江(そんこう)の海戦で唐の艦隊に敗れて全滅。
668年 唐が高句(こうく)麗(り)を滅ぼす。同年、天智天皇が近江京で即位式をあげる=日本建国、最初の天皇。
701年 日本国を名乗る遣唐使が初めて唐の都長安を訪問。
倭人にとって、それまで朝鮮半島とシナ大陸だけが世界だった。ところが、今にも唐軍が日本列島に上陸して倭人を征服し、シナ領にする危険が迫った。そこで日本列島に住む倭人たちと華僑たちが団結、これまでの倭国大王の家柄に天皇という王号を採用し、新たな国家の元首に仕立て上げた。天皇と皇帝は同じ意味だから、日本天皇はシナ皇帝と対等だと主張、シナ文明からの独立を宣言したのである。
8 『日本書紀』が主張する独自の正統(『古事記』は平安初期、9世紀の作)
668年 天智(てんじ)天皇(てんのう)が大津の京で即位、近江令(おうみりょう)を制定、「明神御宇日本天皇」誕生。
673年 前年の「壬申の乱」を経て、天武天皇(てんむてんのう)が即位し、日本天皇となる。
681年 天武天皇が国史の編纂事業を命ずる(『日本書紀』30巻は39年後の720年に完成)。
713年 「風土記(ふどき)」編纂の命が諸国に下る(完成は『日本書紀』編纂に間に合わなかった)。

『古事記』は、江戸時代に本居宣長(もとおりのりなが)が『古事記伝』44巻を書いて古風な日本語に翻訳して以来『古事記』こそ日本の古伝承をありのままに記録したもので、古代人のおおらかな気分をうかがわせてくれる貴重な書物であると思われてきた。しかし、実際には『古事記』も漢文で書いてある。『古事記』が『日本書紀』より古いという根拠は、712年の日付のある序文が付いていることだが、江戸時代の賀茂真淵(かものまぶち)も怪しんでいる。
9 なぜ『古事記』が712年ではなく、平安初期の9世紀の作だというのか
一 『古事記』の序文には、天武天皇が舎人(とねり)(近習)の稗田阿礼(ひえだのあれい)に勅語を下し「帝皇(ていこう)の日継(ひつぎ)、および先代の旧辞(きゆうじ)」を誦(よ)み習わせた、とあるが、『日本書紀』「天武天皇紀」に一言もない。
二 『古事記』の序文を書き、稗田阿礼の覚えた内容を聞き書きしたという太安万侶(おおのやすまろ)は実在したが、1979年に発見された墓誌には、左京の四条四坊に住み、従四位下勲五等で、723年に歿したことなどが記されていたが、『古事記』を天皇に献上した話は一言もなかった。
三 日本における正史に相当する、朝廷の正式の記録である『続日本紀(しよくにほんぎ)』を見ると、元明天皇が和銅四年に太安万侶に『古事記』の著作を命じたということも、太安万侶が翌和銅五年に『古事記』三巻を天皇に献上したということも、全く記事が見当たらない。
四 『古事記』は上・中・下の全三巻しかないが、『日本書紀』は全三十巻ある。『古事記』は上巻が神代の時代で、『日本書紀』の最初の二巻に相当する。『日本書紀』の神代二巻の特徴は、本文の物語が一段落するごとに、「一書に曰く」として多数の異伝を注記していることで、もし『日本書紀』よりも前に『古事記』という勅撰の書が出来ていたなら、当然『古事記』も「一書」の一つとして、『日本書紀』に引用されていなければならない。ところが『日本書紀』の「一書」のどれ一つとして、『古事記』と一致する内容のものはない。
五 それはなぜかというと、『古事記』の方が、『日本書紀』では並列してあるだけの、本文と多数の「一書」の異なった伝承を材料に使って、一本の記述にまとめ上げているからである。私たちが親しんでいる『古事記』の神話は、『日本書紀』が収録した、たくさんの並行する伝承のなかから、もっとも内容の豊富なものを、そのつど取り入れて、整理したもので、『古事記』の方が、読んで面白くわかりやすいのは、そのためである。
六 『古事記』の序文の日付の翌年713年に「風土記」編纂の命が諸国に下った。本当に「風土記」を完成させた地方はたいへん少なく、今では『出雲(いずも)国風土記』『常陸(ひたち)国風土記』『播磨(はりま)国風土記』『肥前(ひぜん)国風土記』『豊後(ぶんご)国風土記』の五風土記しか残っていない。あとは題名だけか、あるいは逸文と言って、一部分が別の史料に引用されて知られているだけで、現存する五風土記も、巻首が欠けていたり、記事が不完全だったり省略ばかりで、全体が残るのは『出雲国風土記』だけである。『出雲国風土記』の成立は733年で、720年の『日本書紀』の完成には間に合わなかった。だから『日本書紀』には、芦原中国(あしはらのなかつくに)を作った大国主神(おおくにぬしのかみ)を主人公とする出雲神話はのっていない。ところが『古事記』には、『出雲国風土記』と同じ大国主命の話が豊富に登場するし、原本は伝わっていない『因幡(いなば)国風土記』にあったらしい因幡の白ウサギの話もある。
七 奈良朝のどんな書物にも、『古事記』の名前もなく、一つの引用もない。
八 平安時代の815年に完成した『新撰(しんせん)姓(しょう)氏録(じろく)』は、1182もの氏族の系統を述べた、日本の古代氏族の系譜書である。この書物は、多くの氏族の由来について『日本書紀』から丹念に記事を拾い集めているが、『古事記』からは一つの引用もない。これはつまり、平安朝の初めになっても『古事記』が世間に知られていなかったことを意味している。
九 『日本書紀』では宮も陵も所在がはっきりしない応神天皇が、『古事記』はのちの『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵式(しよりようしき)」で確定した場所を述べているので、『古事記』の方が新しい。
十 たとえ『日本書紀』の十分の一の分量しかないといっても、仮名という発音記号をまだ持たない時代に、漢字だけがあのように並んだ文章を、稗田阿礼がどんなに頭のよい舎人でも、どうやって暗記して、それを太安万侶に今度は読んで伝えることができたのか。
十一 百年以上あとの平安朝に『日本書紀』の講義をした学者、多朝(おほのあ)臣人(そみひと)長(なが)が、自分の氏族の由来が高貴であると主張するために『古事記』を書き、祖先の作としたと結論できる。
10 日本語の誕生(『万葉集』の歌を古い順に):岡田英弘『日本史の誕生』ちくま文庫
一 天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見 (7C後半 柿(かきの)本朝(もとあそ)臣人(みひと)麿(まろ) 巻七)
(あめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎかくる みゆ)
二 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方 (7C末 天武天皇)
(紫草の にほへる妹を にくくあらば 人づま故に 吾恋めやも)
三 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
(よのなかを うしとやさしと おもへども とびたちかねつ とりにしあらねば)
(8C初め 山上憶良(やまのうへのおくら) 『万葉集』巻五)
四 可豆思加乃 麻万能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
(かづしかの ままのうらみを こぐふねの ふなびとさわく なみたつらしも)
(8C半ば 大伴家持(おおとものやかもち)が採録 『万葉集』巻十四「東歌(あずまうた)」)
五 9世紀にまずカタカナ、10世紀に万葉仮名の草書体としてひらがなが誕生した。
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