「岡田英弘の歴史学を語る-日本人による新しい世界史の誕生」宮脇淳子女史講演要旨(再掲載)

「岡田英弘の歴史学を語る-日本人による新しい世界史の誕生」
第137回東アジア歴史文化研究会 新宿常円寺 2017年7月27日
東洋史家 宮脇淳子
1.岡田英弘(1931.1.24~2017.5.25)の生い立ち
1931(昭和6)年東京の本郷曙町(あけぼのちょう)(今は文京区本駒込一丁目)に生まれる。父方の曾祖父は阿波(あわ)の蜂須賀(はちすか)藩に仕えていた儒者で、祖父は医者になり神戸で開業した。父は神戸一中を卒業して東京の第一高等学校に入学、東京帝国大学医学部で薬理学教授の林春雄に認められ、その姪と結婚し、出来たばかりの東京高等歯科医学校(今の東京医科歯科大学)の薬理学の教授になった。本人は1943(昭和18)年に九段の暁(ぎょう)星(せい)中学校に入学したが、戦災で焼失したので成蹊(せいけい)高等学校尋常科に移り、1947年に成蹊高等学校理科乙類(おつるい)に進んだ。乙類とは英語でない外国語を専門にする科で、医学にはドイツ語が必要だったからである。
たまたま成蹊の図書館には、南条文英(なんじょうぶんえい)先生が集めた漢籍と東洋史と民俗学の大コレクションがあり、毎日三冊ずつ借り、帰りの電車の中で一冊読み、その夜一冊読み、翌朝行きの電車の中でもう一冊読んで、三冊を返してまた三冊を借り出す生活を続けた。大学受験直前、「このまま医科に行けば、私がどんなに偉くなっても『やはりお父さんのおかげだ』と言われるだろう。父と違う道を進もう」と考えて、東大文学部の東洋史学か言語学科のどちらかを受けることにした。父の知人で東大出の言語学者、朝鮮語専門の河野六郎先生が「東大の言語学科は服部四郎という優秀な人がいて二つに割れているから、東洋史学科のほうが適している」と言い、1950年、旧制の最後の年に東大文学部東洋史学科に入った。
2.『満文老檔(まんぶんろうとう)』の日本語訳により、1957年、26歳で日本学士院賞を受賞
当時、日本人がアジア大陸から総引き揚げの時代だったから、文学部に入るのは失業に直結する道で、東洋史は無用の学問の最たるものだった。どうせならと最も人気のない朝鮮史を選び、朝鮮から引き揚げてきた末松(すえまつ)保(やす)和(かず)先生の朝鮮史の授業に出て大学一年で書いた論文が、創立したばかりの『朝鮮學報』第2輯に掲載された。学者人生の始まりである。
そうしたらもっと不人気な分野があって、それが満洲史だった。解散の危機に直面したメンバーに誘われ、17世紀の清朝建国期に満洲語で書かれた年代記『満文老檔』の講読グループに参加した。満洲語は大清帝国(1636~1912年)の第一公用語で、中国語・漢文とは違い、縦書きのモンゴル文字のアルファベットを借用して書いてある。1636年の清朝建国後は、重要な文献はすべて「満漢合璧(まんかんがっぺき)」と言い、満洲語と漢文で同様の内容が書かれたが、『満文老檔』は、漢訳のない清朝初期のきわめて貴重な文献だった。満洲語の使用は、1911年の辛亥革命以来、中国では廃絶に帰してしまったが、京都帝国大学の初代の東洋史教授・内藤湖南(こなん)が満洲の瀋陽で発見し、乾板に撮影して日本に持ち帰っていたのである。1955年から刊行が始まった『満文老檔』日本語訳は、1957年の日本学士院賞を受賞した。父の弟子たちが驚いて、翌々年、父も「硬組織の研究」で日本学士院賞を受賞している。
3.モンゴル研究のためアメリカに留学、チベット学も修める(1959~61)
満洲語を学ぶうちに、中国とは異なる満洲文化の由来がモンゴルにあることを強く感ずるようになった頃、ソ連からアメリカに亡命していた著名なモンゴル学者ニコラス・ポッペが駒込の東洋文庫でモンゴルの英雄叙事詩について講演した。ただちに弟子入りを懇請し、1959~61年、フルブライト交換留学生としてシアトル市ワシントン大学に留学、中期モンゴル語を修めるとともにチベット語とチベット学も学んだ。1959年にダライ・ラマ14世がインドに脱出、1960年にロックフェラー財団が世界十個所にチベット研究センターを開き、ニューヨークからワシントン大学にダライ・ラマ14世の長兄ノルブが招かれてきた。
ノルブはチベットの東北方にある青海の人で、活仏と認定され、青海のクンブム僧院(ラブラン寺)の座主をしていた。中華人民共和国が成立したあと、いち早く青海に侵攻した共産党に軟禁され、弟のダライ・ラマ14世を説得して中国支配を受け入れさせるならラサに行かせてやろう、と言われて派遣された。彼は弟に共産党軍の無信仰と宗教弾圧を伝え、ラサを脱出するように警告したのであるが、若いダライ・ラマはまだ中国について半信半疑だったので、1950年ノルブだけ国外脱出した。東京の築地本願寺に暮らしたこともある。
こうして満洲語やモンゴル語やチベット語などに通じ、シナを支配した人々の立場からシナ史を見直すと、漢文史料がいかに史実を歪曲しているかが、はっきりわかるのである。
4.中央アジア研究と常設アルタイ学会
1962年、もとはヒットラー・ユーゲントのメンバーで、その縁で派遣されて北京に来て、アメリカ軍につかまり、戦後は西ドイツに帰ってボン大学でモンゴル語の教授をしていたヴァルター・ハイシヒ先生が、モンゴル語の古い写本や刊本を探しに日本に来た。このとき英語で通訳をした岡田を気に入り、研究協力者として西ドイツに招いた。
当時の中央アジアはソ連と中国に二分されており研究の自由がなかった。これを憂えたハイシヒ先生は、常設国際アルタイ学会(Permanent International Altaistic Conference)を創設し、岡田も1964年に第7回会議にはじめて出席した。PIACは年に一度、各国の学者が集まって、言語学・歴史学・人類学に関する話題を討議するもので、共産圏からも多くの学者が参加した。会議の開催は各国持ち回りで、さまざまな国の中央アジア研究者たちが、会議費用を集めるのに苦労しながら自国に会議を招聘していた。岡田は1977年の第20回、1984年の第27回に参加、1985年の第28回からは宮脇も同行してほとんど毎年出席し、1995年には川崎市に第38回会議を招聘している。2007年に心筋梗塞になって飛行機に乗れなくなるまで、その前年の2006年にベルリンで開催された第49回会議まで参加した。2007年にカザンで開催された第50回会議のときは入院中で、宮脇だけ参加した。
岡田の言語能力の高さは有名で、英語はネイティブのように話したり書いたりできたが、その他、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語、古典ギリシア語、漢語漢文、ハングルの韓国語、満洲語、モンゴル語、チベット語、サンスクリット語、マレーシア語と数えて、日本語を併せると14カ国語ができた。これらはもちろん、すべて流ちょうに話せるというわけではなく、文法を覚えており、辞典を引けるという言葉も含まれている。
5.日本の世界史教育の始まりと問題点
日本で教えられている世界史という教科は、1945年の第二次世界大戦敗戦後、日本がGHQに占領統治されていた時代に、戦前の西洋史と東洋史を合体させてできたものである。西洋史は、1886年に創立された帝国大学(東京大学の前身)に、翌年ドイツのランケの弟子リースが招かれて文科大学に史学科を開設したのが始まり。1889年に国史科が設置され、そのあと漢史科が設置され、1904年史学科に統合されて西洋史・国史・支那史学になる。
戦後、西洋史と東洋史が合体して世界史になったが、大学に世界史を教える学科はなく、西洋史学科と東洋史学科の卒業生が教師となり、世界史教科書を分担して執筆してきた。戦前の西洋史と東洋史はそれぞれストーリ―があり、話のつじつまの合うものだったが、それを合体させた世界史は西洋史と東洋史を年代ごとに輪切りに並べたものになり、西と東の関連はほとんどない。その上、戦後に研究が進んだ世界各地のできごとをはさんでいくので、各項目はまったく関係がなくなり固有名詞と年代を暗記するだけの科目になった。
6.そもそも歴史とは何か、世界中どこにでも歴史があるわけではない
人間が住んでいた場所だったらどこでも歴史が書かれたわけではない。狭義の歴史の定義は、誰が、いつ、何をして、その結果、このようなことになった、ということを物語るものである。だから歴史が書かれるためには、時間が過去から現在に流れているという観念と、年月日が計測されること、文字と、過去の出来事の因果関係を物語る思想の四つの条件が必要になる。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の四大文明のなかで、歴史が書かれたのは黄河文明だけで、エジプトとメソポタミアには文字があり、王様の名前は残っているが、文明のなかで自分たちの過去を物語る歴史は書かれていない。インダス文明は、高度に発達した都市文明だったが、文字がなかったので、固有名詞は何一つわからない。最近は、新大陸のマヤ文明、アステカ文明、インカ文明も古代文明に含めるが、マヤ文明には文字や暦はあったが、歴史を書くどころか支配者の名前もまったく残っていない。つまり、歴史というのは非常に不公平なもので、書く材料がたくさん残っている文明は、世界史教科書のなかでたくさんの分量がもらえるが、文字史料のない地域は、考古学の発掘成果などを使って埋めるほかはない。世界史教科書だけで世界がわかるということはないのである。
7.いま世界に存在する国民国家の歴史を集めても、世界史にはならない
いま現在、国連に加盟している国は193あるが、戦前、独立国は六十数カ国しかなかった。つまり世界の国家の大半は誕生してまだ何十年かしかたっていない。「国民国家(ネイション・ステイト)」は18世紀末のアメリカ独立とフランス革命で誕生した国家形態で、国境内の国民は平等の権利があり共通の歴史と国語を持っている、という建前である。百年前には国はなかったとしても、国境の外側は異民族であり敵で、何千年も前から私たちの祖先は仲良くこの場所に住んでいた、というのが国民国家史で、これを集めても世界史にはならない。
8.西洋史のもとになった地中海=西ヨーロッパ文明:変化と対決こそが歴史
地球上で最初の歴史書は、ヘーロドトスがBC5世紀にギリシア語で書いた『ヒストリアイ』である。ヘーロドトスは「かつて強大であった国の多くがいまや弱小となり、私の時代に強大であった国もかつては弱小であった」と述べ、黒海とエーゲ海を結ぶ海峡の東側がアジア、西側がヨーロッパで、アジアとヨーロッパの間で積み重なった恨みが、ペルシア軍のギリシア遠征の原因だと解釈した。強大なアジアのペルシア帝国が弱小のギリシア人の諸都市を押しつぶそうとする最後の瞬間にギリシア人が逆転し、勝利を収めて『ヒストリアイ』は終わる。そこで地中海文明では、一、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史である。二、世界の変化は政治勢力の対立・抗争によって起こる。三、ヨーロッパとアジアは永遠に対立する二つの勢力である、という考え方によって歴史が書かれた。
9.東洋史のもとになったのは、天が命ずる「正統」の観念
前漢の武帝(在位:紀元前141-87)に仕えた太史令(たいしれい)(宮廷占星術師長)の司馬遷(しばせん)が、紀元前1世紀に書いた『史記』がシナ最初の歴史書で、それまで「史」は記録係の意味だった。司馬遷は、最初の「天子」とされる黄帝(こうてい)以下五人の神話上の君主から、自分の仕える武帝の治世までを記したが、神話上の黄帝と現実の武帝をつなぐものは「正統」という観念である。皇帝が「天下」(世界)を統治する権限は「天命」(最高神の命令)によって与えられたもので、この天命が伝わる順序が「正統」と呼ばれる。天命の正統に変化があっては皇帝の権力は維持できないから、このあと『明史』まで歴代の王朝によって書き継がれた二十四の「正史」は、現実に変化があっても、なるべく無視して叙述しないことになった。
10.日本の西洋史の背景にあるシナ型の正統史観
明治時代に東京帝国大学に招かれたドイツの歴史学者リースの日本人の弟子たちは、『史記』以来のシナ史の正統の観念を当てはめてヨーロッパ史を理解しようとした。そのため、日本の西洋史概説はギリシアから始まり、フランス、ドイツ、英国という、明治維新当時の世界の三大強国に終わる歴史の流れを主軸に叙述する。つまり天命は近東からギリシア、ローマ、ゲルマンを経て英・独・仏に伝わったと考えている証拠で、ロシアもオランダもスペインもポルトガルもトルコもアメリカも世界史の主流でないのはそのせいである。
11.モンゴル帝国から世界史が始まったという理由
1) 13世紀のモンゴル帝国は、東のシナ世界と西の地中海世界を結ぶ草原の道を支配し、ユーラシア大陸に住むすべての人びとを一つに結びつけて、世界史の舞台を準備した。
2) それまで存在した政権は一度ご破算になり、改めてモンゴル帝国から新しい国々が分かれ、それがもとになって、中国やロシアや東ヨーロッパの諸国が生まれた。
3) 北シナで誕生した為替などの資本主義経済が地中海世界へ伝わり、現代の幕を開けた。
4) モンゴル帝国がユーラシア大陸の陸上貿易の利権を独占、外側に取り残された日本人と西ヨーロッパ人が海上貿易に進出し、歴史の主役が大陸帝国から海洋帝国へと替わった。
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