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プーチン後のロシアはどのような体制になるのか

東アジア歴史文化研究会

10/12(水)

クリミア大橋爆破を受けてウクライナへの無差別攻撃に踏み切ったプーチン大統領(10月10日サンクトペテルブルクで、写真:ロイター/アフロ)

ウクライナ侵攻を続けるロシアのウラジーミル・プーチン大統領が10月7日、70歳の誕生日を迎えた。

ウクライナに対する「妄想」から、ほぼ独断で突き進んだ侵略戦争は思わぬ苦境を招き、軍事大国神話も崩壊寸前の有様だ。

客観的にみれば22年前の大統領就任以降、最悪の状況で迎えた誕生日といっても過言ではない。本人の心境は穏やかではないだろう。

展開できる地上軍の大半をウクライナに投入したにもかかわらず、欧米の支援を受けたウクライナ軍の猛烈な反攻作戦で、ロシア軍は侵攻当初には想像もしなかったほどの大苦戦を強いられている。

東部ルハンシク州や南部ヘルソン州の占領地の維持も困難になる可能性が高い。

プーチン氏がモスクワのクレムリンで、約6割しか占領していないドネツクなど4州が「永遠にロシアになる」と宣言したいわゆる「併合演説」を行った翌日の10月1日、ウクライナ軍はドンバス地方の鉄道輸送のハブである、ドネツク州の要衝都市リマンを解放。

ロシア軍はウクライナ軍に包囲され、ほうほうの体で退却を強いられた。

ロシア軍とプーチン氏にとって信じがたい敗北だった9月のウクライナによるハリコフ州奪還以上の戦略的敗北ともいわれるほどで、ウクライナ軍は、ルハンシク州への攻勢に向けて重要な足場を築いた。

メディアやSNSでの過激な言動で知られる民族愛国的な武闘派の動揺は激しく、ショイグ国防相ら軍幹部を公然と非難する異常な状況であり、到底プーチン氏の誕生日を祝うような雰囲気ではなかった。

さらにはウクライナの人権団体、ベラルーシの人権活動家とともに、昨年末に政権が解散決定を下したロシアの人権団体「メモリアル」のノーベル平和賞授賞が7日、発表されたこともプーチン氏にとっては道義的な打撃となった。

「メモリアル」はスターリン時代に行われた大粛清など多くの人権弾圧の調査と被害者救済を粘り強く続けてきたが、プーチン政権が最も重視するスターリンが指導した大祖国戦争勝利(第2次大戦の対独戦勝)を中核とした愛国主義政策の推進にとって目障りな存在として外国の代理人と指定されていただけに、ノーベル賞委員会が一矢報いた格好となった。

■ ソ連が誕生して今年で100年

さてロシアは今年の12月30日で、ソ連誕生から100年を迎える。

プーチン氏はソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的な大惨事」と悔やみ、1990年代を屈辱の時代とみなす。

病的なまでに歴史に固執するプーチン氏である。ウクライナ侵攻開始に際し、プーチン氏は短期間の電撃的な「軍事作戦」でウォロディミル・ゼレンスキー政権を崩壊させる皮算用だったという。

自身の誕生日までにウクライナを勢力圏に組み込んだうえで、ベラルーシを巻き込んで、記念すべき12月30日に「新たな大ロシア」あるいは「大ロシア的共同体」を復活させるという、荒唐無稽な野望を描いていた可能性すら排除できないだろう。

■ プーチン支持の変動要因は何か

さて、否定的な意味ではあるが、21世紀に入って世界の指導者でプーチン氏ほど「存在感」を発揮してきた政治家はいないだろう。

そのパワーの源泉は、実力組織であるFSB(連邦保安庁)など旧KGB系諸機関、石油、天然ガスという富の源泉の掌握とともに、国民からの支持が不可欠である。

無名のFSB(連邦保安庁)長官だったプーチン氏は1999年8月、ボリス・エリツィン大統領(当時)から後継指名を受け、首相としてテロ対策、チェチェン戦争の指揮をとることで、奇跡的ともいえる国民の支持を獲得。

2000年3月、大統領選に初当選し最高権力者の地位に駆け上がり、その後は首相に転じた時期をはさんで3回再選された。基本的には安定した支持率を維持して現在に至っている。

そこには何か「秘密」があるのだろうか。

独立系世論調査機関「レバダセンター」のデータを基に1999年夏を実質的な起点として、現在までの支持率の上下動をみていると、プーチン支持にはある種の「法則」があることが分かる。

端的に言えば、支持を急上昇させた主な要因は、「軍事作戦」と「テロ」である。

1999年にプーチン氏の支持をあっという間に急上昇させたのが、自作自演の疑惑がある一連のアパート爆破テロだ。

さらにはドミトリー・メドベージェフ氏が1期だけ大統領を務め、自身は実権を保持しながら首相を務めた2008年のジョージア紛争であり、極め付けは爆発的な支持率上昇をもたらした2014年のクリミア併合であることは言うまでもない。

一方で支持率を急落させたのは、経済状況や社会保障など、日常生活に影響を及ぼす要因だ。  クリミア併合で一時は9割近くにまで上昇した支持率は、2018年の年金受給年齢引き上げで、約6割程度に下落した。

そうした支持動向は、ロシア国内では「特別軍事作戦」とされる2月24日のウクライナへの侵攻以降、再び約8割と急上昇に転じていた。またしても戦争の効果は絶大だった。

ただ、見落としてはならないのは、こうした単純な「法則」が当てはまらない事例もあるという点だ。

政権1期目の2004年、北オセチアで起きた学校占拠事件などチェチェン過激派による連続テロだ。

強権で押さえ込んだはずが、多数の犠牲者を出したことで、プーチン支持率が下落した。

テロ対策に失敗したり、戦況の帰趨次第では、瞬く間に支持は急落する。テロや戦争は、権威主義的な政権にとって諸刃の剣なのである。

ところでプーチン体制の正統性の主要な根拠は、政治的自由や民主主義の制限と引き替えに、自由な日常生活を保障することだ。

これまで国民の大多数がウクライナ侵攻を続けるプーチン氏を支持してきたのは、「欧米が支援するウクライナのネオナチ政権を倒すための『特別な軍事作戦』だ」とする政権のプロパガンダを鵜呑みにしているからではない。

むしろ現実から逃避し、政治に無関心のままで日常生活が維持されていたからだ。

しかし部分動員令により、自分や家族知人友人が突然軍隊に駆り出され、国民の多くはようやく戦争の現実に直面した。

部分動員令後、80%以上あったプーチン支持率は9月下旬の世論調査では約5ポイント下落した。

戦況は厳しく、動員拡大は不可避であり、平均的な市民のなかで政権が国民との「暗黙の社会契約」を破ったとして、政権不信が高まる可能性が高いといえよう。

■ ますます抑圧強化に向かうプーチン

プーチン氏は、侵攻直後の3月、多数の若者らが海外に脱出したことについて、批判者の排除は「自然かつ必要な社会の浄化作用だ」と豪語した。

その後も、反戦を訴える政権批判派を外国の手先として断罪する発言を行っている。追い詰められ、ますます陰謀論に囚われているだろう。

■ 西側世界との決別

プーチン氏は9月30日、ウクライナの東部・南部4州の併合を宣言したクレムリンでの演説の大半を、ウクライナよりも欧米へのヒステリックなまでの非難に費やした。

「西側諸国は残酷な植民地化の歴史を考えれば、ウクライナの一部併合を非難する道徳的権利はない」などとロシアの違法行為を正当化した。

権力の座について22年間、プーチン氏の演説で最も攻撃的かつ異様な演説だった。大部分が、米欧への底なしの怨念と憎悪の限りをつくした異様な主張の羅列である。

「西側エリートの独裁は、すべての者へ挑戦状だ。このような人間の完全否定、信仰と伝統的価値の破壊、自由の抑圧は、宗教を逆手に取った悪魔崇拝を帯びている」などと現実離れした主張もした。

さらには演説の締めくくりがファシズム志向をもつ20世紀前半の国家主義的な哲学者であるイワン・イリインの言葉だったのは象徴的だったといえよう。

プーチン氏は今後、西側世界から「包囲された要塞」ロシアを守れなどと保守層に向け、プロパガンダを強化するとともに、反戦運動に対して、さらなる抑圧的な措置を導入する可能性が高い。

「反欧米」「革命嫌悪主義者」のプーチン氏が敗北と民主化を容認する可能性は低い。

しかしウクライナ戦争に明白なかたちで敗北すれば、プーチン退場の可能性も排除できない。

それでも、たとえプーチン氏が退場しても、根本的な政策転換につながるかは大いに疑問がある。

プーチン体制は、あたかもプーチン一人が牛耳っている個人独裁の体制のようだが、むしろプーチン的な思想傾向を共有する人々による統治体制という意味で、プーチン主義体制というべきシステムだ。

もしも、より「穏健」に見える政権幹部がプーチン氏から政権を引き継いでも、制裁緩和と国際社会への復帰が狙いに過ぎない。

いわば「プーチンなきプーチン主義」が継続し、侵攻以前の権威主義体制に戻るだけである。

権威主義体制が瓦解しない限り、ウクライナにとっては言うに及ばず、日本を含め国際社会にとってロシアによる脅威はなくならないのである。