「外交も戦争も全て情報戦によって決まる-コミンテルンと昭和史の真相」⑤日本最大の敵(ハーバード・ノーマン)
「外交も戦争も全て情報戦によって決まる-コミンテルンと昭和史の真相」
⑤日本最大の敵(ハーバード・ノーマン)
しかし、なんと言っても「日本の敵」の真打は、ハーバード・ノーマンであろう。カナダ外交官で、戦前から終戦後にかけて「知日派学者」として名を馳せたノーマンは、マルクス主義者であり、ほぼ間違いなくコミンテルン工作員であった。彼はケンブリッジ大学留学時にイギリス共産党に入党し、インド独立運動に関わった。ちなみにアグネス・スメドレーもベルリンでインド独立運動に携わり、その後上海に入っている。
こうした経歴をすべて秘密にしてカナダ外務省に就職したノーマンは、モスクワつまりコミンテルン系統の活動家たちと秘密の接触を重ねながら「日本専門家」として出世していく。その過程で、ハーバード大学講師で戦後日本を代表する経済学者となる都留重人と知り合った。そして昭和15年に東大に留学し、現在も岩波文庫から翻訳が出ている「日本における近代国家の成立」を刊行して、若きジュアパノロジストとして一躍有名になる。
東京で日米開戦を迎えたノーマンは交換船でアメリカに戻るのだが、その途上、やはりアメリカから日本への交換船で送り返される途中だった都留とアフリカのロレンソ・マルケスの港で劇的に落ち合い、一瞬の隙に情報をやりとりした。そこでは、都留がハーバードに残してきたアメリカ共産党ネットワークの極秘資料を処分してくれとノーマンに頼んだのだと、のちに都留を取り調べたFBI捜査官が議会で証言している。
そしてノーマンはアメリカに帰国後、実際にハーバードの都留の下宿に行ったことがFBIによって確認され、ノーマンはFBIから繰り返し取り調べを受ける。FBIは都留がアメリカ共産党員であったと見ていたから、ノーマンのような怪しい人物があらわれるのをじっと監視していたのである。ノーマンは最終的に、マッカーシーのいわゆる「赤狩り」時代にスパイ疑惑を追及され、1957年に自殺する(他殺の可能性もある)。
ノーマンは、昭和12年に支那事変が始まると、スメドレーの親友で戦後「女性開放」運動に影響を与えたアメリカ共産党員の石垣綾子やキョ朝鼎、また都留らとともに、アメリカ国内で反日、反戦活動を繰り広げた。日本に石油を売ってはならない、中国を侵略している日本を孤立させていこう、と呼びかける反日集会を二ユーヨーク・ボストン・フィラデルフィアなど東部の主要都市で開催し、昭和14年のアメリカによる日米通商航海条約破棄を大きく後押ししたのである。
日本降伏後の1945年9月、東京に赴いてノーマンはいち早く、マルクス主義憲法学者の鈴木安蔵と接触し、「憲法研究会」と称する左翼グループを作らせ、GHQ草案に近似した憲法草案を公表させる工作に従事したのであった(原秀成「日本国憲法制定の系譜・Ⅲ」2006年)。この意味で「日本国憲法」は、単に占領軍将校が、一週間で作った「GHQ憲法」というだけでなく、もっとディープな「影の工作」をそもそもの基礎として生まれたという点で、「ノーマン憲法」さらには、「コミンテルン憲法」という方が、より本質に近い呼び名であると思われる。
ノーマンはまた、近衛文麿を戦犯指名するようGHQを動かした影の工作者でもあった。近衛は昭和20年10月にマッカーサーから新憲法起草を指示されており、戦犯指名はされないはずであった。ところが12月に突如「戦犯」として逮捕命令が出され、出頭期日の12月16日に自殺することになる。
この逆転劇の背景として、大きな影響力を持ったと考えられるのが、近衛の尋問に関わったGHQ将校ポール・バランやトマス・ビッソン(ヴェノナでコミンテルン・エージェントと証明されている)と共に、ノーマンの工作活動であった。ノーマンは来日後、マッカーサーと直接しかも頻繁に会っていたと言われる。すでに戦前から、北米では「すぐれた知日派」としての名声を博していたが故に、「日本のことはノーマンに聞け」というのがGHQ内部の常識となっていて、マッカーサーの初期の占領方針が左傾化したのは、ケージスやホイットニーらニューディーラーだけではなく、コミンテルン工作員として断罪されているノーマンの影響もあったのである。
⑤日本最大の敵(ハーバード・ノーマン)
しかし、なんと言っても「日本の敵」の真打は、ハーバード・ノーマンであろう。カナダ外交官で、戦前から終戦後にかけて「知日派学者」として名を馳せたノーマンは、マルクス主義者であり、ほぼ間違いなくコミンテルン工作員であった。彼はケンブリッジ大学留学時にイギリス共産党に入党し、インド独立運動に関わった。ちなみにアグネス・スメドレーもベルリンでインド独立運動に携わり、その後上海に入っている。
こうした経歴をすべて秘密にしてカナダ外務省に就職したノーマンは、モスクワつまりコミンテルン系統の活動家たちと秘密の接触を重ねながら「日本専門家」として出世していく。その過程で、ハーバード大学講師で戦後日本を代表する経済学者となる都留重人と知り合った。そして昭和15年に東大に留学し、現在も岩波文庫から翻訳が出ている「日本における近代国家の成立」を刊行して、若きジュアパノロジストとして一躍有名になる。
東京で日米開戦を迎えたノーマンは交換船でアメリカに戻るのだが、その途上、やはりアメリカから日本への交換船で送り返される途中だった都留とアフリカのロレンソ・マルケスの港で劇的に落ち合い、一瞬の隙に情報をやりとりした。そこでは、都留がハーバードに残してきたアメリカ共産党ネットワークの極秘資料を処分してくれとノーマンに頼んだのだと、のちに都留を取り調べたFBI捜査官が議会で証言している。
そしてノーマンはアメリカに帰国後、実際にハーバードの都留の下宿に行ったことがFBIによって確認され、ノーマンはFBIから繰り返し取り調べを受ける。FBIは都留がアメリカ共産党員であったと見ていたから、ノーマンのような怪しい人物があらわれるのをじっと監視していたのである。ノーマンは最終的に、マッカーシーのいわゆる「赤狩り」時代にスパイ疑惑を追及され、1957年に自殺する(他殺の可能性もある)。
ノーマンは、昭和12年に支那事変が始まると、スメドレーの親友で戦後「女性開放」運動に影響を与えたアメリカ共産党員の石垣綾子やキョ朝鼎、また都留らとともに、アメリカ国内で反日、反戦活動を繰り広げた。日本に石油を売ってはならない、中国を侵略している日本を孤立させていこう、と呼びかける反日集会を二ユーヨーク・ボストン・フィラデルフィアなど東部の主要都市で開催し、昭和14年のアメリカによる日米通商航海条約破棄を大きく後押ししたのである。
日本降伏後の1945年9月、東京に赴いてノーマンはいち早く、マルクス主義憲法学者の鈴木安蔵と接触し、「憲法研究会」と称する左翼グループを作らせ、GHQ草案に近似した憲法草案を公表させる工作に従事したのであった(原秀成「日本国憲法制定の系譜・Ⅲ」2006年)。この意味で「日本国憲法」は、単に占領軍将校が、一週間で作った「GHQ憲法」というだけでなく、もっとディープな「影の工作」をそもそもの基礎として生まれたという点で、「ノーマン憲法」さらには、「コミンテルン憲法」という方が、より本質に近い呼び名であると思われる。
ノーマンはまた、近衛文麿を戦犯指名するようGHQを動かした影の工作者でもあった。近衛は昭和20年10月にマッカーサーから新憲法起草を指示されており、戦犯指名はされないはずであった。ところが12月に突如「戦犯」として逮捕命令が出され、出頭期日の12月16日に自殺することになる。
この逆転劇の背景として、大きな影響力を持ったと考えられるのが、近衛の尋問に関わったGHQ将校ポール・バランやトマス・ビッソン(ヴェノナでコミンテルン・エージェントと証明されている)と共に、ノーマンの工作活動であった。ノーマンは来日後、マッカーサーと直接しかも頻繁に会っていたと言われる。すでに戦前から、北米では「すぐれた知日派」としての名声を博していたが故に、「日本のことはノーマンに聞け」というのがGHQ内部の常識となっていて、マッカーサーの初期の占領方針が左傾化したのは、ケージスやホイットニーらニューディーラーだけではなく、コミンテルン工作員として断罪されているノーマンの影響もあったのである。
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