なぜイギリスは立憲君主制を選択したのか 市民階級で読み解く政治体制の決まり方(著作家 宇山卓栄)
只今、『教科書が教えない天皇の世界史』がリリースされています。おかげさまで多くの方々に御高覧頂いており、深く感謝申し上げます。
天皇は英語で「エンペラーEmperor」、つまり、皇帝です。現在、世界で王(King)はいるものの、「エンペラー」と呼ばれる人物は天皇ただ一人です。そして、日本は天皇を戴く世界唯一の「帝国」です。
19世紀までは世界の国々のほとんどが王国か帝国でしたが、その後、多くの国で君主制が打倒もしくは廃止されました。あるいは、立憲君主制により、君主の権限が制限されました。
人々は何を基準に、君主制を残すか残さないかを決めたのでしょうか。
この問題を考えることは、我々一般人にとって、君主とはどういう存在で、どんなメリットがあるのか、あるいはないのかを知ることに直結します。たとえば、イギリスのチャールズ1世は1649年にピューリタン革命で、フランスのルイ16世は1793年にフランス革命で、それぞれ公開処刑され、両国は共和制となります。
その後、イギリスもフランスも王制が復活し、イギリスは二度と王制を廃止することはありませんでしたが、フランスでは1948年、王制が再び廃止され、それ以降、復活することなく、今日に至っています。
結果的にフランスは共和制を、イギリスは立憲君主制を選択したのですが、なぜ、このような違いが生じたのでしょうか。
それを考えるとき、キーワードとなるのが「階級」です。中世ヨーロッパの世俗社会は、単純化すれば、王侯貴族からなる上流階級と一般大衆からなる下層階級という構造でした。
しかし16~17世紀の「近世」と呼ばれる時代になると、貨幣経済が浸透し、ヨーロッパ各地にマーケットが整備され、ブルジョワという新しい勢力が台頭してきます。ブルジョワとは商工業に携わるビジネスマンのことです。このブルジョワが「中産階級」という新しい階級を形成していきます。ブルジョワはドイツ語のブルク(Burg都市、城塞)に由来する言葉です。
中世には、城壁の中でマーケットが開催されました。そのマーケットに関わった商工業の従事者たちを「城壁の中の住民」という意味で、ブルガー(Burger)と呼びました。フランス語でブルジョワ(Bourgeois)です。
フランス革命で商工業者のブルジョワが活躍し、大きな社会的影響力を持ったため、フランス語読みのブルジョワが一般化しました。ブルジョワは市民革命であるフランス革命を担ったことから、市民という意味を持つようにもなります。
16~17世紀以降、中産階級のブルジョワが社会の中核的存在となり、経済発展を牽引していきます。そうなると、上流階級(王侯・貴族の保守勢力)と下層階級(一般大衆)の綱引きの中で、このブルジョワ中産階級がどちらにつくかが政治体制を決する上で重要となります。
ブルジョワが下層階級と結びつくと共和制となり、上流階級と結びつくと立憲君主制となります。フランスが前者のケースとなり、イギリスは後者のケースとなりました。
17世紀前半、イギリスでは、ブルジョワの大半が、上流階級が特権にしがみついていることに激しく反発し、下層階級と連携しました。ブルジョワ勢力を率いた指導者クロムウェルは1642年、市民革命(ピューリタン革命)を起こし、王党派を破り、国王チャールズ1世を捕えました。チャールズ1世の処刑を巡り、革命勢力の内部で対立が生じました。国王処刑に賛成したのは下層階級でした。彼らは共和派で、あらゆる特権階級を排斥しようとしました。ブルジョワ勢力の大半がこの下層階級の意見に同調しました。
一方、チャールズ1世の処刑に反対したのはブルジョワの右派勢力でした。彼らは共和制には反対で、身分の序列を残す立憲君主制を主張しました。革命の指導者クロムウェルは多数派の左派勢力に与し、1649年、国王を処刑しました。
革命後、クロムウェルは護国卿(在任1653~58年)に就任し、共和制を掲げますが、下層階級のための政治を行ったのかというと、実際のところ、そうではありません。クロムウェルの政治的スタンスは彼の政権が発足する前と後とで、大きく異なります。政権発足前、クロムウェルは下層階級とともに市民革命を起こし、革命軍を率いて、王党派を倒しました。そして、下層階級の要求に従い、チャールズ1世を処刑しました。
しかし、政権を握ると、クロムウェルは下層階級を弾圧しはじめます。特に下層階級で急進的な共和制を主張した水平派と呼ばれる人々を危険視し、大勢を処刑しました。
一方、クロムウェルは政権運営のために、ブルジョワ中産階級の経済力が必要と考え、中産階級を擁護する政治を行います。ブルジョワ勢力も下層階級と手を組むことは危険だと感じはじめました。
人口の大半が下層階級で、彼らのすべてが自分たちの権利を要求して暴れはじめれば、収拾がつかなくなってしまいます。ブルジョワたち中産階級もその地位を追われてしまいます。
クロムウェルは革命後のそうした空気の変化を読んで、政治スタンスを変化させていったのです。クロムウェルの死後、ブルジョワ勢力は上流階級である貴族との連携を強めていきます。ブルジョワ勢力は自分たちの身分を守るため、身分制社会を強く肯定するようになります。
ブルジョワ勢力は議会政治を主張し、上流階級は王制を主張していました。そして、両者の折衷案である立憲君主制が成立します。上流階級と中産階級は連携し、共和派を排除しながら、穏健な立憲君主政治を掲げ、王政復古を実現させました。
1660年、チャールズ2世が即位します。当初、チャールズ2世は立憲君主主義の精神に理解を示し、議会と妥協しながら、うまく関係を構築していました。
しかし、徐々に議会の意向を聞かなくなり、議会との対立が深まります。チャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世が即位しました。保守強硬派のジェームズ2世は専制支配の復活を目指します。
議会との対立は避け難く、1688年、名誉革命となり、ジェームズ2世は追放され、オランダからジェームズ2世の長女メアリ(即位してメアリ2世)と夫のオランダ総督ウィレム(同ウィリアム3世)が国王として迎えられます。
先に述べたように、オランダ総督夫妻をイギリス国王に迎えたのは、海外植民地をめぐってフランスとの対立が激化しているイギリスが、オランダとの関係を改善・強化し、フランス・オランダとの二正面作戦を回避するためのしたたかな外交戦略の一環でもありました。
イギリス人のしたたかさは、内政においても遺憾なく発揮されます。上流階級と下層階級の綱引きが続くなか、上流階級がさまざまな妥協案をブルジョワ中産階級に提示し、彼らをうまく取り込んだのです。その最たるものが、1688年の「権利の章典」です。
王侯・貴族がものごとを勝手に決める(専制)のではなく、ルールや権利関係を明文化し、それに皆が従うことによって、公正さを担保しようとしました。
ブルジョワもこうしたルールの明文化に賛同し、王制と共存する道を歩みます。「権利の章典」が基礎となり、イギリスでは立憲君主制が発展します。名誉革命以後、イギリス議会は国王に実質的な政治権力を認めず、これまで国王が持っていた外交交渉権、関税や消費税などの徴税権、行政執行権などを取り上げてしまいます。「国王は君臨すれども統治せず」という有名な言葉が生まれ、イギリスの立憲君主制が確立します。
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