李登輝総統の時代、アジア・オープン・フォ-ラムで何回かお目にかかったが、任期を終えられて淡水にシンクタンクを設立された。そこにも数回は訪問し、李登輝総統から話を聞いた。後藤新平賞授賞式に東京にこられたときも楽屋で会った。
いつも「日本は一体、何をしているのか。あの武士道精神はどこへ行ったのか」とおしかりである。
台北のご自宅は狭い応接室、大渓にあった別荘は質素なつくり、ただし地下の蔵書はぎっしりと数万冊の書籍で埋まり、図書館のようだった。三割ほどが日本語だった。李登輝総統は日本語の達人でもあった。
嘗て台湾総督府で陣水扁総統の安全保障担当補佐官と話し合ったとき、彼が言った
「日本は外交政策を考えなくていいね。あるのは追随政策だけだから」。この箇所を「フォーリンポリシーではなくフォローイングポリシーだ」と、揶揄するように補佐官は流暢な英語で言った。
当該補佐官は台湾のメディアで健筆を振るっていた司馬文武である。
戦後八十年、日本は自主的な外交を展開したか?
ナショナリズムの発火は東京五輪だった。日本人に自信を回復させる契機となったが、昭和40年の日本はまだまだ各地に戦争の残骸がのこり、交通は渋滞し、学校はすし詰めだった。吉田茂は独立を回復した機会に憲法を変えるべきだったが、かれはむしろ憲法を口実に朝鮮戦争への出兵を拒否した。
佐藤栄作の沖縄返還は日本の繊維産業の抜本的縮小などと引き換えだった。核は持ち込まれた。密使だった若泉敬は必死の決意で舞台の裏方を務めた。
一昨年、筆者は福井県鯖江市郊外に建立された若泉の墓に詣でた。丸い地球儀をかたちどった特注墓である。
日本は独自の外交を実践できない。ところが米国はときおり方針を転換すると、チャンスが訪れる。ソ連と敵対関係から雪解けになるや、日本はシベリア開発、樺太ガス開発でロシアと協同できた。イランとは原油輸入で密接な関係があったが、米国のイラン制裁によりイラン原油の輸入が困難となった。アラブの商人らは足下を見る。日本は高い原油を買わされ続けてきた。
核武装はがんじがらめの監視体制、つまり核拡散防止条約という不条理によって事実上禁止されている。アメリカ人には復讐権という強迫観念があり、日本が核武装すると、かならず二発お見舞いされるという恐怖感がある。だから日本に核を持たせないのだ。
▼ドル基軸体制は日本が根底を支えている
日本のフォローイングポリシーとは「赤字を支えるために米国債を買え」「金利を据え置け」「為替レートを変えるから従え」となる。不動産不況に直面するや日本にロックフェラーセンターを買えと要請し、高値で買わされ、後日安値で買い戻された。
リーマンショックでは三菱銀行と野村證券が、リーマンなどへの出資救済を要請された。三菱は90億ドルの巨額を投じてモルガンスタンレーに出資した。野村證券はリーマンのアジア、欧州部門を2億5000万ドルで買収し、8000人従業員も引き受けた。この巨額の決定は米国からの電話一本、わずか一晩で決定にいたった。
日頃の日本では稟議審議が長引き即断ができないシステムなのに、これはどうしたことだろうと誰もが訝しんだ。
戦争を勝手に仕掛けながら、後始末は日本の番である。カンボジア北爆で密林にもナパーム弾や枯れ葉作戦。ところがカンボジア戦後復興を任され、地雷を撤去したのは日本だった。
犠牲者がふたり。そればかりかカンボジア平和会議は東京で開催しろと言われ、丸ごと日本の負担となった。その後のカンボジア支援は日本が世界一である。ところが政治的にカンボジアは中国経済圏にある。
湾岸戦争では尻ぬぐいの機雷掃海をやらされた。その日本に対して、自らが苦況に陥るとスーパー301条とか年次改革要求とか、ようするに日本はアメリカのATM、米国債の最大の債権者である日本がアメリカ経済を支えている。金兌換からペトロダラー体制で維持されているドル基軸体制は日本が根底を支えているといっても過言ではないだろう。
アメリカがけしかけて始めたウクライナ戦争とて日本は無関係なのに1兆7000万円の負担金が廻ってきた。
日本は果たして独立した外交政策をとれるか?
独自の経済主権を発揮して金利、通貨、為替政策をとれるのか? と問えば永田町ばかりか日銀、財務省の腰抜け達に期待できると考える人はよほどの善人だろう。
(余滴)追随とは「隋」に従うことであり、聖徳太子の遣隋使以後、シナの制度、文化をまねたという意味だから、現代語では「追随」より「追米」がふさわしい。
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