評 植田剛彦(評論家)
たしかに保守派のアキレス腱は古代史、とくに『空白の四世紀~六世紀』とされるのも、古事記、日本書紀以外、文献がないからだ。またこの年代に関しては研究書もすくないからどうしても日本書紀の記述に準拠しがちだった。
しかし近年の考古学の発展が、がらりと変えた。
三内丸山遺跡も真脇遺跡も、ここ半世紀ほどの発見であり、古墳もいくつかで発掘調査が進展し、副葬品などから、古代のありようが客観性をもって判明するようになった。
本書は『空白の世紀』の謎を全国を歩いて、現場に立って考え直すという試みである。
文献に偏りがちだった古代史家の盲点をつく作業、就中、現地の神社などでは記紀では書かれていない稗史、伝説があり、そのうえ、たとえば『福井県史』などにあたると、別の解釈が色濃くでており、くわえて『播磨風土記』『常陸風土記』などの重要な箇所を見逃さない。
応神天皇を論ずるに著者の宮崎氏は父親とされる仲哀天皇、産み月を遅らせて男装武士のいでたちで新羅征伐に向かった神功皇后を最初に追跡する。
神功皇后が出航したのは敦賀である。合流地点の豊浦(山口県)、熊襲退治の前進基地となった香椎宮(福岡県)、そして凱旋後の瀬戸内海における忍熊王らとの決戦場(兵庫県から大阪府)から住吉大社へと筆は進む。
こうなると史論とルポルタージュが重なる。
応神天皇の皇子は仁徳天皇だが、なぜ彼が慈愛にみちた徳の高い天皇とされ、最大規模の大仙陵に祭られたのか、いや仁徳陵は、ひょっとして応神天皇を祭っているのではないかと推理はサスペンス小説風だ。
応神の五代孫とされる継体天皇も、従来は近江基盤説だったが、越前の三国神社、味真野神社から気比神社、大伴金村らが迎えにきたと伝わる天皇堂などを探求しての推論は、貿易で財閥となっていた継体天皇は三度乞われて皇位を引き継いだが、従来の解釈ではヤマト王権側に反対が多く、二十年間も奈良に足をいれられなかったとするのは間違いだとする。
ヤマトは、通商国家をめざして継体天皇にとっては辺境でしかなく、樟葉宮、筒城宮、弟国宮へ遷都したのは、もともとが彼の貿易拠点で別荘があったという地政学的解釈で、目から大きく鱗が落ちた。
だいたい「古志」の王権などといわれても教科書にはでてこないから知らない人がおおいのではないか。
当時、日本の表玄関は日本海沿岸であり経済的に豊かだった。古志が歴史に埋もれたのは出雲風土記はあっても『古志風土記』がないことと、日本書紀が徹底的に大和朝廷史観に立脚しているからだ。
読了に三日を要したが、非常に有益だった。
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