渡部昇一『名著で読む日本史 』(扶桑社新書) 日本人はいまも、国史に美しい虹をみる 微細で科学的な歴史叙述では歴史の全体像は見えない
『大道無門』という渡部昇一氏がホストをつとめた討論番組のゲストに複数回呼ばれたことがある。
文化放送で週一の竹村健一氏番組は毎月いっぺんに四本ほどまとめて収録するので、スタジオ隣の待合室で、順番を持つ渡部氏とよく一緒になった。時間を見つけると本を読んでおられ、それも分厚い原書。まったく“本の虫”という印象を強く持った。
脱線ついでに言うと氏は蔵書17万冊の個人図書館をもちながら、印象とは違って歌がうまいのである。その資質はこども三人とも音楽家となった。
さて名著というのは何回読んでも味わいが深いものである。
「読書人のなかの読書人」、渡部先生が日本史の名著を選んで目の前に提示した。本書は復刻版で、解説を儒学者の大場一央氏が書いているところが新しい。
何度読み返してもヒントの山積みの本書には、古事記、日本書紀、栄華物語、平家物語、神皇正統記、太平記、中朝事実、日本外史は当然でてくる日本人の必読書だ。
これらに加えて渡部氏が選んだのは太平記、名将言行録、日本中世史、軍閥攻防史、近世日本国民史などである。意外な分野の名著が含まれている。とくに『紫禁城の黄昏』に関して岩波文庫版の意図的な削除と誤訳を指摘している箇所は瞠目である。
氏は頼山陽の『日本外史』より『日本楽譜』のほうが思白いと言われるが、評者(宮崎)は寧ろ『日本政記』の方が分かりやすく、簡潔な構成だと思う。
また水戸光圀が発企した『大日本史』は、なんと250年かけて完成した。読みどころはやまのようにあるが、この『大日本史』が錦の御旗を重視したため、岩倉具視が偽の錦旗を作成したのだという。
戦後、GHQは古事記、日本書紀を教育現場では教えてはならないと命じ、このため現在85歳以下は、自分の国の神話も歴史も知らない。ところが渡部氏の学んだ上智大学では古事記を読むゼミがあったという。
スサノオは初めて歌を読んだ。
「八雲立つ・・」の五七五七七の形式はこのとき出来たが、古代日本語は、「吾」は「われ」と呼ばず、「あ」と発音した。なるほど徳川家康が愛読者の『吾妻鏡』は「あづまかがみ」である。
古事記の神話時代にでてくる地名は日本中に残っている。『日本書紀』は漢文で書かれているが、和歌、長歌の箇所は古事記と同様に漢字を表音文字として使っている。
さて、この稿では紙幅の関係があり北畠親房の『神皇正統記』に絞り込んで、渡部氏はいかに評価したかを、みたい。
北畠親房は後醍醐天皇のブレーンとして知られるが、天皇にたびたび換言し、また戦争を継続しながら常陸の城に籠もって神皇正統記を書き続けた熱血の学者兼武将である。
「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、日神長く統を伝え給ふ。わが国のみこの事あり、異朝にはその類なし。この故に神国というなり」
渡部氏は、この書の『最も重要な点は史観なのです。歴史の見方です』という。
当初、北畠親房は後醍醐天皇の皇子、世良皇子をおしえたが、世良親王早世、38歳で剃髪し出家。建武の中興により還俗し政治中枢に復帰した。陸奥将軍となった息子の北畠顕家に随行し、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ向かう。
足利が叛旗を翻したため、北畠顕家とともに親房も京へ向かい、楠木正成、新田義貞とともに尊氏を追い出した。親房は軍師でもあった。堺のたたかいで息子の顕家が戦死した。尊氏が九州から再興してくると後醍醐は吉野へにげる。親房も従い、吉野南朝をつくる。
「この南朝樹立に最も政治的な手腕を発揮したのが親房」だったと渡部氏は指摘する。
親房は伊勢から奥州でふたたび兵力を結集しよう伊勢から船出したが、途中暴風雨にあって常陸へ流れついた。
筑波山麓の小田城で心血を注ぎ、神皇正統記を脱稿し、後村上天皇に捧げた。特色は南朝の正当性をのべたばかりか、それを裏付ける三種の神器の沿革をのべ、また慈円『愚管抄』の末法思想を真っ向から否定した。
また院政を批判したことでも知られる。つまり天皇の「勅」、院が発する「院宣」、そして皇子が出す「令旨」など、権力が乱雑に乱れ、世の乱れとなったと親房は考えたのだ。
親房が源頼朝を褒めたのも不思議といえば不思議だが、渡部氏は、
「要するに親房は、のちに後村上天皇となる義良親王に教訓を垂れているのである。政治とはいかにあるべきかを諭しているのである」。
一度は出家したほどの仏教に通暁しながらも親房は鎌倉仏教も元寇を追い払った北条時宗にも一言も触れず「仏教的歴史観を完全に否定している」(80p)のである。
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