自衛戦争か、侵略戦争か マッカーサー曰く「彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」(国際派日本人養成講座)

1.自衛戦争か、侵略戦争か
1951(昭和26)年5月3日、ダグラス・マッカーサー元帥は、米上院の軍事外交合同委員会で次のような発言をしている。
「日本は絹産業(蚕、かいこ)以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの原料の供給を絶ち切られたら、1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました、したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」
この5年前に開かれた東京裁判では、キーナン検事が冒頭陳述でこう述べている。
「彼らは文明に対し宣戦布告をしました。彼らは起訴状に列挙されている偉大な民主主義諸国に対し侵略戦争を計画し、準備したのです。(全世界の)支配および統御が彼らの共同謀議の趣旨であったのです。」
「日本が世界を支配しようとして侵略戦争を起こした」という東京裁判史観と、「日本は自衛戦争を戦った」というマッカーサーの史観は完全に対立するものである。
マッカーサーはどこからこのような史観を学んだのか。それはおそらく東京裁判において、キーナン検事に徹底的に抗弁した開戦当時の首相・東條英機の供述からであろう。
2.「東條証言の影響はおそらく深刻なものになるであろう」
東京裁判で、東條の供述書が朗読されたのは、昭和22(1947)年12月26日からであった。供述書は220ページもあり、朗読に3日間もかかった。前年の4月から、清瀬弁護人が毎朝東條に面会して書き上げたものであった。
東條は、その供述の最後に、「摘要」として次のような総括を行っている。(読みやすくするために、かな遣いを一部改め、句点を追加している)
「私は・・・1941(昭和16)年12月8日に発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に起因し、我国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。」
供述書朗読の後、12月31日から、キーナン検事の東條尋問が始まった。その内容の一部は後で紹介するが、尋問が終わった翌日、イギリス駐日代表部長のガスコインはマッカーサーにこう言った。
「東條の証言は、キーナンに完全に勝っています。東京裁判に対する世論が心配です。」
「その通り。きわめて心配である」とマッカーサーも同意し、さらに「東條証言の影響はおそらく深刻なものになるであろう」と語った。当のマッカーサー自身がその「深刻な影響」を受けて、それが5年後の米国上院での冒頭の証言に現れてた、と考えられる。
3.「米英蘭の合従連衡による対日経済圧迫の事情」
マッカーサーの指摘した「これらの原料の供給を絶ち切られたら」という点についてはで紹介したが、東條自身は当事者として供述書で次のように述べている。
「米英蘭政府は日本の仏印(ベトナム)進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の圧迫を加えて来ました。これらの国は1941年(昭和16年)7月26日既に資産凍結を発しました。」
以下、東條はフィリピン、イギリス、オランダでも同時に資産凍結が行われた事を指摘した。日本企業がこれらの国で持つ預金口座などが凍結されることで、輸入のための支払いができなくなり、また輸出の代金も日本に送金できなくなる。結局、日本は輸出入を完全に閉ざされたわけである。
4.「日本の経済生活は破壊せられんとした」
供述は続く。
『右のごとく同じ日に「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した事実より見てこれらの政府の間に緊密な連絡がとられておったことは明白なりと観察せられました。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来(じらい)日本は満洲、支那、泰(タイ)以外の地域との貿易は全く途絶し日本の経済生活は破壊せられんとしたのであります。』
この結果が、マッカーサーの証言で「1千万から1千2百万の失業者が発生するであろう」という事態になったわけだが、この点に関しては東條は次のように述べている。
「ことに石油は総て貯蔵に依らねばならぬ有様でありました。この現状で推移すれば我国力の弾発性は日一日と弱化し、その結果日本の海軍は2年後にはその機能を失う。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規則を施すも一年を出でずして麻痺状態となることが明らかにされました。ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態になったのであります。」
まさに日本は国家の生存権を奪われ、座して死を待つ状態に置かれたのである。
5.米英豪其他の陸海空軍の大拡張
日本を経済的な麻痺状態に追い込むと同時に、米国は対日軍備の増強を続けた。
この当時米英側の一般戦備ならびにその南方諸地域における連携は益々緊密を加え活気を呈するに至りました。すなわち1940年(昭和15年)8月には「ノックス」海軍長官は「アラスカ」第13海軍区に新根拠地を建設する旨公表したとの情報が入りました。
同年12月には米国は51カ所新飛行場建設および改善費4千万ドルの支出を「スチムソン」、「ノックス」及「ジョオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと伝えられました。これらは米国側が日本を目標とした戦争準備ならび軍備拡張でありました。
しかも依然として米英豪其他の陸海空軍の大拡張が継続せられつつありとの情報が入って来ております。すなわち米国海軍省では1940年(昭和15年)1月以降72億34百万ドルを以て艦艇2831隻の建造契約なり現在968隻を建造中なる旨発表しました。
なお1941年(昭和16年)10月下旬には「ノックス」海軍長官は米海軍の建造状況に関し(イ)就役せる戦闘用艦船346隻(ロ)同建造中乃至契約済345隻・・・(ホ)10月1日現在海軍飛行機4535機(同)製造中のもの5832機なる旨発表しました。
日本側は鉄も石油も輸入を止められ、その軍事力は日々衰弱する一方であったが、米国はその国力を傾けて軍備大拡張に邁進していたのである。
6.「日本はそれを脅威と感じた」
こうした点について、キーナン検事と東條は法廷において次のようなやりとりをしている。
キーナン「1940年9月、アメリカは日本に脅威を与えておおりましたか?」
東條 「ここの証拠を提出しているように、相当の圧迫を受けておりました。とくに、経済的圧迫を受けておりました。ご承知のように昭和14年7月、日米通商航海条約はアメリカに破棄され、日本政府は非常な圧迫を受けておりました。」
キーナン「私はあなたに軍事的脅威があったかどうかを尋ねているのです。」
東條 「昭和15年5月と思います。アメリカの大艦隊は、ハワイに集結していたという事実を申し上げれば、おわかりだろうと思います。」
キーナン「アメリカが自国の半島や島々に飛行場や設備をつくるのは、防衛的意味を持っていないというのですか?」
東條 「それはアメリカがどう考えるかは勝手であって、日本はそれを脅威と感じた、そう申し上げているのです。」
アメリカの大軍拡、およびハワイでの大艦隊集結は争うことのできない事実であり、日本がそれを脅威と感じたという点も、誰にも否定しようがなかった。事実においても論理においても、東條がキーナン検事を圧倒していた。
7.「首謀者の言動は著しく挑発的となって来ました」
もっともアメリカの軍備拡張が「防衛的意味」を持ってはいないことは、米英政府の挑発からも明らかであった。
・・・米英蘭豪の政情及軍備増強は益々緊張し又、首謀者の言動は著しく挑発的となって来ました。・・・
例えば1941年11月10日には「チャーチル」英首相は「ロンドン」市長就任午餐会において「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は1時間以内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられました。
その翌々日「イギリス」の「ジョージ」6世閣下は議会開院式の勅語にて英国政府は東亜の事態に関心を払うものであると言明せられたと報ぜられました。
「ルーズベルト」大統領はその前日である休戦記念日に於いて米国は自由維持のためには永久に戦わんと述べ前記英国首相ならびに国王の言葉と相呼応して居ります。「ノックス」海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時至ると演説したのであります。
日本を経済的に追い詰め、大軍拡による戦争準備を進め、その上で「さあ、かかって来い」と日本を挑発してきたのである。これらの挑発は、「我国朝野を刺激し」、と東條は述べている。議会も新聞も、対米開戦を求める声を上げていた。
8.「米国は日本の受諾し得ざることを知りて通知」
こんな状況の中でも、日本政府は外交交渉を通じて戦争を回避しようと、最後の努力を続けていた。日本政府が11月5日に最終の譲歩案として米政府に提案したのが、甲乙二案であった。特に乙案は、日支間の和平が成立すれば日本軍を引き上げると約束した上で、石油禁輸、資産凍結を解除してもらいたい、という最終譲歩案であった。
この2案を承認した御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製
「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」
を読み上げられ、「自分はこの明治天皇の平和愛好の御心を実現したいと思っている」と述べられ、満座粛然として、しばらくは一言も発する者はなかった、という。
米国がこれへの回答として送ってきたのが、「ハル・ノート」であった。支那からの無条件撤兵、すでに数十各国から承認されている満洲国の否認、南京国民政府の否認など、それまでの交渉を白紙に戻したような強硬な要求が並んでいた。
これを受け取った日本政府は「米国案の過酷なる内容に唖然たるものがありました」として、こう解釈した。
米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りてこれを通知して来ている。・・・米国側において既に対日戦争の決意を成しているもののごとくである。ここに至って、日本政府はようやく対米英戦争を決意した。
9.「国に報ゆることの足らねば」
東條供述書は次の一節で締めくくられている。
「戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別できる二つの異なった問題であります。
第一の問題は外国との問題であり、かつ且法律的性格の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。・・・
第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。」
昭和23(1948)年11月4日、東京裁判の判決が下され、東條は絞首刑を言い渡された。東條は満ち足りた表情で、二度ほど「分かった、分かった」というように頷いた。裁判で言うべきことは言った、という思いがあったのだろう。
東條は清瀬弁護人に対して「再審請求は行わないでほしい。一日も早く刑を執行していただきたい」と語った。それは「侵略戦争」を起こした罪からではなく、国民に対する敗戦の責任をとる道であった。絞首刑は12月23日に行われ、東條は次の辞世を遺して世を去った。
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん大和島根に花薫るとき」
(文責:伊勢雅臣)
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