東アジア歴史文化研究会のブログ

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張作霖爆殺事件の真の容疑者とは ソ連と中国共産党は日本以上に明確な動機を持っていた(国際派日本人養成講座)

東アジア歴史文化研究会

これまで張作霖爆殺事件の犯人とされてきたのが、関東軍高級参謀、河本大作大佐でした。ところが、近年これを否定する研究者が多くなってきました。昭和3年当時の東アジア情勢をイギリス情報機関が分析し、ソ連・中国共産党の犯行であるとしています。たいへん説得力ある内容です。『マオ』(ユン・チアン著)にもコミンテルンの手先が暗殺したとはっきり記しています。張作霖と共産党(コミンテルン)との間には相当の軋轢があったようです。共産党本部の家宅捜査、鉄道問題でもかなりもめていました。しかし、日本とはそれほど利害関係がなかったようです。東京裁判でもほとんど証拠というものがなく、すべて伝聞であったらしい。犯人とされていた河本大作大佐を証人として証言させればよかったものの、不利だとして証言させることはありませんでした。コミンテルン、中国共産党の謀略工作の凄さにもっと目をむけなければならないのですが・・・。以下、国際派日本人養成講座からの転載です。ぜひご一読ください。

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張作霖爆殺事件の容疑者

■1.「深紅の炎が暁闇を破って」
現代史家の秦郁彦氏は、その光景を次のように描いている。
「ドドッ、ドカーン! ドカーン! 耳をつんざく轟音とともに、深紅の炎が暁闇を破って噴き上げる。破片と火の粉が降り注ぎ、陸橋一帯は黒煙に包まれた。計2百キログラムの黄色火薬が、張作霖の乗る展望車を直撃したのである」。

東京裁判は「1928年の張作霖事件から1945年の終戦までの日本国の戦争犯罪を裁く」としており、その発端とされたのが、この爆殺事件だった。事件の経緯を、育鵬社の中学歴史教科書『新しい日本の歴史』はこう説明している。「中国では、辛亥革命のあと、軍閥による地方政権が各地に分立していました。孫文の後を継いだ国民党の蒋介石は、南京に国民政府を樹立しました。そして軍の近代化をはかるとともに、中国の統一をめざし、張作霖が率いる北京政府を打倒する戦いを開始しました(北伐)。・・・国民党軍の北京占領を目前にした張作霖は、日本政府の説得で、満州に引き上げようとしましたが、途中、日本軍によって列車を爆破され死亡しました」。

この記述で理解できないのは、日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、なぜ日本軍が爆殺しなければならなかったのか、という点である。論理がつながっていない。

■2.日本軍の仕業かどうかは未確定
確かに、日本軍の仕業と思わせる証拠はあった。爆破現場から200mほど離れた所にある日本兵の監視所まで、爆弾点火のための電線が残されていたとか、使用されたのが日本軍以外には使っていない高級な黄色火薬であるとか。さらに首謀者とみられる関東軍参謀の河本大作大佐が、以前から張作霖を除くことを主張していたことも傍証とされている。しかし、列車の屋根は吹き飛んでいるが、架台やレールは無傷であり、列車の天井に爆薬が仕掛けられていた可能性も高い。列車の整備は中国側で行っていたので、日本軍はそこまで手が出せない。

また張作霖を守るために、奉天軍側がその前日に警備の交替を日本側に申し出て、奉天軍兵士50名が警備していたことなど、関東軍の仕業とは言いがたい事実もある。

したがって、前節の歴史教科書のように「日本軍によって列車を爆破され死亡しました」と断言できるほど、史実として確定されているわけではない。

■3.他にも動機を持った容疑者がいる
本稿では、この事件の事実関係よりも、その陰にある興味深いポイントを一つだけ見ておきたい。それは当時も、また現在も、犯行を日本軍の仕業と決めつけて、他国の謀略の可能性を疑う姿勢が少ないことである。当時の日本政府も軍当局も、関東軍の仕業と信じて、なんとかうやむやに問題を収束させようとしたのだが、イギリスの情報機関は、こうした日本政府の態度を奇異に感じていた。事件のほぼ一ヶ月後の7月3日、北京駐在公使ランプソンは本国のチェンバレン外相あてに次のような公電を打っている。「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも四つの可能性がある。」

それにも関わらず、日本政府の対応は以下のような奇異なものであったと報告されている。

「1929年2月に日本の国会で、この問題についてさんざん質問攻めにあったにもかかわらず、首相も陸相も日本の無実を示す証拠を出さなかったし、無実を主張することもしなかった。」

何事も、まずは自らの襟を正そうとするのは日本人の美徳であるが、陰謀の渦巻く国際社会では、この美徳一本槍では、やっていけない。

■4.張作霖排除は「ソ連にとって魅力的な選択肢」
384pxzhang_zuolin_in_pekingイギリスの情報機関は独自の状況分析をもとに、決定的な証拠はまだない、としながらも「ソ連が事件を引き起こした可能性には、一定の形跡がある」として、次のような報告をしている。

ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていたこと。次に1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃(後述)以来、張作霖は長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきたこと。最後に張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であったことが挙げられる。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。張作霖爆殺の動機面から見れば、ソ連がもっとも怪しいというのである。

■5.「ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害」
上述の「在北京ソ連大使館襲撃」の内容を知ると、このイギリス情報機関の分析が腑に落ちる。1927(昭和2)年3月に蒋介石の北伐軍が南京に入城した際に、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が、外国の領事館や居留地を襲い、日本人や欧米人の死者を出した。

当時の国民政府内には、中国での共産革命を進めるためのコミンテルン(世界共産革命をめざすソ連の支援組織)の勢力が浸透していた。これらの共産分子が、蒋介石と欧米諸国の対立を煽ろうとして、この事件を起こした、と見られている。この事件の背後にソ連と中国共産党の策謀があるとして、日本や欧米諸国の意を受けて、奉天軍が北京のソ連大使館を捜査し、ロシア人・中国人80名以上を検挙したのが、この「在北京ソ連大使館襲撃」である。

まさに英国情報機関が分析した通り、反ソ反共の張作霖は「ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害」であった。こうして見れば、「日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、日本軍が爆殺した」などというよりも、ソ連の方が明確な張作霖爆殺動機を持っていた、とする英国情報機関の分析の方が、はるかに説得力がある。

■6.張作霖爆殺後の長男・張学良の鮮やかな方向転換
しかし、後をついだ長男、張学良は、ソ連にとって「扱いにくくない指導者」となったのか。張学良は6月21日に父親の死亡を公表し、2日後に葬儀を終えると、7月4日には東三省保安総司令となって、満洲の支配を継承した。

ところが、張学良は、父親が敵対してきた蒋介石に対して和平を宣言し、10月には国民政府の委員に就任し、さらに12月29日には居城である奉天城内外に一斉に、国民政府軍の青天白日旗を掲げて、蒋介石に与してしまった。蒋介石と戦ってきた父親の方針を、わずか半年ほどで正反対に転換したのである。しかも、蒋介石側も、この急激な方針転換をいぶかった形跡もなく、即座に政府内の委員に任命している。

後に公開された蒋介石日記で、前年の1927年7月20日に「張学良も忠誠を伝達し、入党してきた」という記述が発見されている。張学良は父親の爆殺の10ヶ月ほど前に蒋介石の国民党に忠誠を誓い、爆殺後、自ら実権を握ると、半年で蒋介石に荷担したのだ。こうして見ると、「張学良が父親を爆殺して、蒋介石と組んだ」という見方も、動機論として説得力がある。

■7.張学良への置き換えの最大の受益者
ソ連と張学良が、日本軍以上に張作霖爆殺の動機を持つ容疑者として浮かび上がってきたが、実は両者は奥でつながっていたようだ。12月29日に奉天城に翻った青天白日旗に混じって、実に多くの赤旗が掲げられていた、という報告がある。南京事件の後、蒋介石も上海で共産党指導者ら90名あまりを処刑していた。張学良が真に蒋介石に忠誠を誓っていたら、赤旗など上げさせなかったろう。張学良のもとでのみ、共産党勢力が大手を振って歩けたのである。

7年後の1935年末に張学良から中国共産党への入党申請があり、中国共産党はモスクワのコミンテルンにその可否を求めた電文を発信した、という証言がある。張学良の共産勢力との結びつきを示す極めつけが、1936年12月の西安事件である。当時、蒋介石は中国共産党を崩壊寸前にまで追い詰めていたが、張学良が蒋介石を西安で軟禁し、以後、共産党との協力を約束させた。この西安事件から日本と蒋介石が戦う羽目になり、さらに日本の敗戦後、蒋介石は、国共内戦に敗れて台湾に逃げ込む。中国が共産勢力の手に落ちたのは、張学良による西安事件があったからだと言って良い。

したがって、張学良を「扱いにくくない指導者」としたことの最大の受益者は、ソ連とその手先だった中国共産党であったと言える。

■8.ソ連にこの犯罪の責任があり
1422973張作霖爆殺事件の半年後、英国外務省あてに送られた「張作霖の死に関すメモ」ではこう結論づけている。「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起動装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠からみて、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。」

爆殺が実際に行われた現場の証拠を洗ってみれば、日本人の共謀があったのは疑いがない、という。しかし、日本の軍人が関与したからと言って、それが日本軍の仕業だと言うことはできない。たとえば、朝日新聞記者だった尾崎秀實(ほつみ)は、ソ連の工作員として、世論を誘導して日本を蒋介石との戦争に引きずりこんだのだが、だからと言って、それが朝日新聞の犯行とは言えないのと同じである。

犯罪の首謀者とは、その手先に使われた人間ではなく、自らの動機をもって、その犯罪を計画した人間でなければならない。この意味で、張作霖爆殺事件の首謀者はソ連だと、英国情報機関は判断したのである。

■9.伏せられてきた共産主義の脅威
この英国情報機関の推定が正しいとは、現時点でも断言できないが、少なくともソ連と張学良が日本軍以上に明確な張作霖殺害動機を持っていたことは明らかだろう。ここで興味深いのは加藤康男氏の次の発言である。加藤氏は、河本大佐が張作霖殺害を実行する動機を持っていたことを認めつつも、「だが同時に、権力を掌握したスターリンも張作霖の殺害を国家的に実行しようと試みていたのは明白だった。それにもかかわらず日本の国内で、張作霖殺害の動機が論争になったことがほとんどないのはむしろ奇妙な印象を受ける。」

加藤氏は「奇妙な」と言うが、戦後日本を支配してきた左翼的な史観では、ソ連や中国共産党の謀略は伏せられてきたのであり、ここでもその影響が出たと考えれば、これは「当然」だろう。

ソ連や中国共産党の暗躍を隠して、すべてを日本軍の侵略のせいにしようとするから、「日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、日本軍が爆殺した」などという論理の通らない歴史観が出てくる。

1937(昭和12)年の盧溝橋事件から上海事変に至る、日本が日中戦争の泥沼に引きずり込まれる過程でも、ソ連と中国共産党の策謀があったことは述べた。戦前の我が先人たちが直面していた共産主義の脅威の実態を明らかにしなければ、日中戦争の悲劇の真の原因は分からない。それは、我が国が現在も直面している脅威にも気がつかない、ということにつながるだろう。

(国際派日本人養成講座より)