「明治人・福澤諭吉」(明治150年記念シンポジウム 渡辺利夫拓殖大学前総長)
3月15日、東アジア歴史文化研究会にて渡辺利夫氏(拓殖大学前総長・学事顧問)に「士魂 福沢諭吉の真実-今こそ明治維新のリアリズムから学べ」のテーマで講演していただいた。前半部分がこの「明治人・福澤諭吉」(明治150年記念シンポジウム)と重なっているので、転載させていただいた。
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「明治人・福澤諭吉」(明治150年記念シンポジウム)
左翼リベラリズムが「造作」した福澤像
福澤諭吉は幕末の三十三年を生き、維新を迎えてから三十三年を生きて、激動の時代を活写し続け六十六歳で亡くなりました。しかし、世に伝えられている福澤の人物像が真実の福澤像とはずいぶん異なっているのでないか。このことをラディカルな観点から問うたのが私の著作『士魂-福澤諭吉の真実』(海竜社)です。
福澤諭吉と聞くと、多くの方が、幕末から明治期が強いのではないかと思いますと説いた文明開化論者、欧化主義者というイメージに、西洋文明を取り入れて、新生日本を創成すべしと説いた文明開花論者、欧化主義者というイメージが強いのではないかと思います。また、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という天賦人権説を説いた人物だというイメージもあると思います。もう少し詳しい方だと、「政府は国民の名代にて、国民の思うところに従いことをなすものなり」と主張した社会契約説の啓蒙思想家だというイメージを持っているかと思います。
どうしてこのようなイメージになってしまったのかというのが私の疑問です。福澤諭吉の名を世に高からしめた著作が『学問のすゝめ』です。三百四十万部売れるベストセラーになりました。明治維新期の日本の人口は三千五百万人ですから、十人に一人が買ったということになります。その『学問のすゝめ』の影響力が大変に大きかったことが一つの理由だと思います。もう一つは『福翁自伝』にいわれる「門閥制度は親の敵で御座る」という強烈なメッセージがあります。
福澤の父親は無類の学問好きだったようです。中津藩では漢籍では彼にかなう者はいないというほどのレベルに達したのですが、門閥制度に遮られたために、学問を通じての社会的上昇は不可能であり、失意の生涯を送りました。
父親は福澤がまだ子供のときに死んでしまったので、直接聞いたわけではないのですが、母親から「下級士族の子供では出世できない。学識に応じて出世できるのはお寺だけだから、諭吉はお寺の小僧にしてやろう」と父親が言っていたということを母のお順から何度も聞かされて育ったそうです。「門閥制度は親の敵で御座る」という表現はいかにも迫力のあるメッセージです。
旧社会への憤惑を押さえきれず、親の仇を討つために西洋の学問の修練に努めるほかなしと長崎に行って蘭学の修得に努め、さらに大阪に行って適塾に入り緒方洪庵に才能を見出され、東京に出てきて英学に転じ知識人としてのスタートを切りました。
『学問のすゝめ』や『福翁自伝』から伝わってくるイメージが、福澤の真実をどれぐらい伝えているのか。実は、この世に一般的な福津イメージは、戦後の左翼リベラリズムが「造作」した福澤像だと思います。リベラル系知識人が好んで福澤を取り上げるのですが、自分の思想の淵源が福澤にあるのだという権威づけのために、意識的にか無意識的にか、そういう福澤像をつくりあげたのでしょう。それが、中学や高校の教科書に載っている一般的な福澤のイメージになってしまったのではないか。私は福澤思想はもっと多面的、多層的な思想だと思っています。
榎本と勝を批判する「痩我慢之説」
このような福樺イメージの対極になっている論文が二つあります。一つは明治二十四年に脱稿された「痩我慢之説」です。これは、榎本武揚と勝海舟の出処進退のあり方を徹底的に難じた文章です。この内容を読むと、冒頭に申し上げたような福澤のイメージがずいぶんと怪しくなってきます。福澤が「痩我慢之説」という論説を書くにいたった理由には、次のような事情があったからだと思われます。
明治維新によって徳川藩は駿府城に移されていたのですが、福澤はその後この藩がどのようになったのかが気になり、明治二十四年秋に東海道を南へ下ります。そして、清水港の近くの興津にある清見寺に立ち寄ったのです。そこには「咸臨丸受難諸氏記念碑」があると聞いていたからです。
日米修好条約のために使節官が軍艦に乗ってアメリカに渡ったとき、それを護衛した小さな船が「咸臨丸」です。福澤はその船に乗せてもらい、サンフランシスコまで行きました。戊辰戦争の頃、威臨丸は清水港で幕府の運搬船として使われていたようです。この咸臨丸が官軍の砲撃に遭い、乗船員七名全員が死亡しました。しかし、倒幕軍の目を恐れて、死亡した七名を弔う者は誰もいない。そこで、侠客・清水の次郎長の山本長五郎が子分を使って死体を引き上げて清見寺に埋葬し、のちに殉難碑を建てました。
福澤はその碑に線香を立てて鎮魂の祈りを捧げます。そして碑の後ろにまわると、なんと榎本武揚の名前で「食人之食者死人之事(人の食を食む者は人のことに死す)」と書いてあるのに気づいて驚愕したのです。徳川家の禄を食んだ者は徳川家のために死すべきだと書いであったのです。これを見た福澤は、腸が煮えくりかえり、腫を返して東京に戻り、一挙に認めた論説が「痩我慢之説」です。
榎本武揚は、江戸城開城後に軍艦八隻を引き連れ品川を脱出して函館に入りました。そして五稜郭に立
て龍もって蝦夷地政府を樹立するにいたりますが、官軍との戦いによってほほ全滅。榎本は官軍に捕獲されて東京に護送され、禁固刑に処せられました。しかし、ほどなくして赦免を受け、その後は新政府で文部大臣、枢密院顧問、外務大臣、農相大臣と、トントン拍子で位を極めていくのです。
福澤は、碑の前であの榎本がそんなことを、後世に残る石碑に刻み込んでいいのかという憤怒を抱いたのだと思います。そして自宅に帰って一気に「痩我慢之説」を書きます。
維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、仮令いその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔して又その遺族の人々の不幸不平を慰め、又一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決して之を遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。即ち是れ吾輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀に於て士風消長の為めに軽々看過すべからざる所のものなり。
榎本に従った部下たちのほとんどは、官軍への投降を拒否して無惨な死を遂げています。その部下をそのままにして、明治政府で位を極め、かつ咸臨丸の碑に「人の食を食む者は人のことに死す」と刻み込むとは何ということか。怒気を含んで福澤はこの文章を書いているのです。
勝海舟についても、ほとんど同じ評価を下しています。 一般的に、勝という人物の官僚や政治家としての能力には高い評価が与えられていて、勝海舟が好きな人は少なくないと思います。しかし、福澤は勝の出処進退のありように侮蔑に近い感情を露わにしております。
後世の国を治む者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の痩我慢を取らざるべからず(中略)然るに爰に遺憾なるは、我日本国に於て今を去ること廿余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる痩我慢の一大義を害したることあり。即ち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済に於て一時の利益を即したりと雖も、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。
西郷を評価する「丁丑公論」
榎本武揚と勝海舟というこの二人の人物の出処進退のあり方を徹底的に批判する一方、西郷隆盛については、深い敬愛の念を持っています。西郷こそ士風、士魂の人物であるとし、その西郷をこれほど簡単に逆賊の汚名をそそいでいいのかと主張しています。ときの政府、ときのジャーナリズムは西郷を、今では信じられないほどの卑劣な口調で批判しています。そのような逆風のなかで、福澤のみは西郷を懸命に擁護しようとしたのです。
私が持っている西郷のイメージは、近代化を誰よりも強く望む一方、その近代化を推進するリーダーの資質は、旧士族社会の道徳、つまりは士風、士魂の持ち主でなければならない。指導者が士風、士魂をなくしたならば、西洋列強の勢力から日本を守ることができない、我々は西郷の持っていた士風、士魂に注目しなければならないと福澤は論じたのです。その論説が「丁丑公論」です。
西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり。学識に乏しと雖ども粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、如何なる大事変に際するもその挙動綽々然として余裕あるは、人の普く知る所ならずや。(中略)薩の士人は古来質朴率直を旨とし、徳川の太平二百五十余年の久しきも遂に天下一般の弊風に流れず、その精神に一種貴重の元素を有する者と云うべし。(中略)薩に居る者は依然たる薩人にして、西郷、桐野の地位に在るものにても衣食住居の素朴なること豪も旧時に異ならず。
「門閥制度は親の敵で御座る」と言った福澤の主張とは明らかに異質の主張が「丁丑公論」や「痩我慢之説」では書かれているのです。
福澤諭吉という人物の真実はどこにあるのか。我々は左翼リベラリズムが充満する風潮のなかにあって、彼らがつくった福澤諭吉像を正しいものとして受け取っています。しかし、そんなことがあっていいはずはない。
幕末の三十三年と維新後の三十三年を生き、六十六歳で没した福澤が、最後にどのような思想にたどり着いたのかを押さえることが何より重要なことだと私は思うのです。

渡辺利夫(わたなべとしお)氏
昭和十四年、山梨県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、同大学院経済学研究科博士後期課程満期取得退学。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授などを経て拓殖大学国際開発学部学部長、同大学学長および総長を歴任。専門は開発経済学・アジア経済である。日本思想史にも造詣が深い。著作に、『神経症の時代』(文春学塾ライブラリー)、『アジアを救った近代日本史講義』(PHP新書)、『士魂-福澤諭吉の真実』(海竜社)、『決定版脱亜論』(育鵬社)、『死生観の時代』(海竜社)など。
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「明治人・福澤諭吉」(明治150年記念シンポジウム)
左翼リベラリズムが「造作」した福澤像
福澤諭吉は幕末の三十三年を生き、維新を迎えてから三十三年を生きて、激動の時代を活写し続け六十六歳で亡くなりました。しかし、世に伝えられている福澤の人物像が真実の福澤像とはずいぶん異なっているのでないか。このことをラディカルな観点から問うたのが私の著作『士魂-福澤諭吉の真実』(海竜社)です。
福澤諭吉と聞くと、多くの方が、幕末から明治期が強いのではないかと思いますと説いた文明開化論者、欧化主義者というイメージに、西洋文明を取り入れて、新生日本を創成すべしと説いた文明開花論者、欧化主義者というイメージが強いのではないかと思います。また、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という天賦人権説を説いた人物だというイメージもあると思います。もう少し詳しい方だと、「政府は国民の名代にて、国民の思うところに従いことをなすものなり」と主張した社会契約説の啓蒙思想家だというイメージを持っているかと思います。
どうしてこのようなイメージになってしまったのかというのが私の疑問です。福澤諭吉の名を世に高からしめた著作が『学問のすゝめ』です。三百四十万部売れるベストセラーになりました。明治維新期の日本の人口は三千五百万人ですから、十人に一人が買ったということになります。その『学問のすゝめ』の影響力が大変に大きかったことが一つの理由だと思います。もう一つは『福翁自伝』にいわれる「門閥制度は親の敵で御座る」という強烈なメッセージがあります。
福澤の父親は無類の学問好きだったようです。中津藩では漢籍では彼にかなう者はいないというほどのレベルに達したのですが、門閥制度に遮られたために、学問を通じての社会的上昇は不可能であり、失意の生涯を送りました。
父親は福澤がまだ子供のときに死んでしまったので、直接聞いたわけではないのですが、母親から「下級士族の子供では出世できない。学識に応じて出世できるのはお寺だけだから、諭吉はお寺の小僧にしてやろう」と父親が言っていたということを母のお順から何度も聞かされて育ったそうです。「門閥制度は親の敵で御座る」という表現はいかにも迫力のあるメッセージです。
旧社会への憤惑を押さえきれず、親の仇を討つために西洋の学問の修練に努めるほかなしと長崎に行って蘭学の修得に努め、さらに大阪に行って適塾に入り緒方洪庵に才能を見出され、東京に出てきて英学に転じ知識人としてのスタートを切りました。
『学問のすゝめ』や『福翁自伝』から伝わってくるイメージが、福澤の真実をどれぐらい伝えているのか。実は、この世に一般的な福津イメージは、戦後の左翼リベラリズムが「造作」した福澤像だと思います。リベラル系知識人が好んで福澤を取り上げるのですが、自分の思想の淵源が福澤にあるのだという権威づけのために、意識的にか無意識的にか、そういう福澤像をつくりあげたのでしょう。それが、中学や高校の教科書に載っている一般的な福澤のイメージになってしまったのではないか。私は福澤思想はもっと多面的、多層的な思想だと思っています。
榎本と勝を批判する「痩我慢之説」
このような福樺イメージの対極になっている論文が二つあります。一つは明治二十四年に脱稿された「痩我慢之説」です。これは、榎本武揚と勝海舟の出処進退のあり方を徹底的に難じた文章です。この内容を読むと、冒頭に申し上げたような福澤のイメージがずいぶんと怪しくなってきます。福澤が「痩我慢之説」という論説を書くにいたった理由には、次のような事情があったからだと思われます。
明治維新によって徳川藩は駿府城に移されていたのですが、福澤はその後この藩がどのようになったのかが気になり、明治二十四年秋に東海道を南へ下ります。そして、清水港の近くの興津にある清見寺に立ち寄ったのです。そこには「咸臨丸受難諸氏記念碑」があると聞いていたからです。
日米修好条約のために使節官が軍艦に乗ってアメリカに渡ったとき、それを護衛した小さな船が「咸臨丸」です。福澤はその船に乗せてもらい、サンフランシスコまで行きました。戊辰戦争の頃、威臨丸は清水港で幕府の運搬船として使われていたようです。この咸臨丸が官軍の砲撃に遭い、乗船員七名全員が死亡しました。しかし、倒幕軍の目を恐れて、死亡した七名を弔う者は誰もいない。そこで、侠客・清水の次郎長の山本長五郎が子分を使って死体を引き上げて清見寺に埋葬し、のちに殉難碑を建てました。
福澤はその碑に線香を立てて鎮魂の祈りを捧げます。そして碑の後ろにまわると、なんと榎本武揚の名前で「食人之食者死人之事(人の食を食む者は人のことに死す)」と書いてあるのに気づいて驚愕したのです。徳川家の禄を食んだ者は徳川家のために死すべきだと書いであったのです。これを見た福澤は、腸が煮えくりかえり、腫を返して東京に戻り、一挙に認めた論説が「痩我慢之説」です。
榎本武揚は、江戸城開城後に軍艦八隻を引き連れ品川を脱出して函館に入りました。そして五稜郭に立
て龍もって蝦夷地政府を樹立するにいたりますが、官軍との戦いによってほほ全滅。榎本は官軍に捕獲されて東京に護送され、禁固刑に処せられました。しかし、ほどなくして赦免を受け、その後は新政府で文部大臣、枢密院顧問、外務大臣、農相大臣と、トントン拍子で位を極めていくのです。
福澤は、碑の前であの榎本がそんなことを、後世に残る石碑に刻み込んでいいのかという憤怒を抱いたのだと思います。そして自宅に帰って一気に「痩我慢之説」を書きます。
維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、仮令いその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔して又その遺族の人々の不幸不平を慰め、又一には凡そ何事に限らず大挙してその首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて決して之を遁るべからず、成ればその栄誉を専らにし敗すればその苦難に当るとの主義を明にするは、士流社会の風教上に大切なることなるべし。即ち是れ吾輩が榎本氏の出処に就き所望の一点にして、独り氏の一身の為めのみにあらず、国家百年の謀に於て士風消長の為めに軽々看過すべからざる所のものなり。
榎本に従った部下たちのほとんどは、官軍への投降を拒否して無惨な死を遂げています。その部下をそのままにして、明治政府で位を極め、かつ咸臨丸の碑に「人の食を食む者は人のことに死す」と刻み込むとは何ということか。怒気を含んで福澤はこの文章を書いているのです。
勝海舟についても、ほとんど同じ評価を下しています。 一般的に、勝という人物の官僚や政治家としての能力には高い評価が与えられていて、勝海舟が好きな人は少なくないと思います。しかし、福澤は勝の出処進退のありように侮蔑に近い感情を露わにしております。
後世の国を治む者が経綸を重んじて士気を養わんとするには、講和論者の姑息を排して主戦論者の痩我慢を取らざるべからず(中略)然るに爰に遺憾なるは、我日本国に於て今を去ること廿余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる痩我慢の一大義を害したることあり。即ち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管和を講じて自から家を解きたるは、日本の経済に於て一時の利益を即したりと雖も、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。
西郷を評価する「丁丑公論」
榎本武揚と勝海舟というこの二人の人物の出処進退のあり方を徹底的に批判する一方、西郷隆盛については、深い敬愛の念を持っています。西郷こそ士風、士魂の人物であるとし、その西郷をこれほど簡単に逆賊の汚名をそそいでいいのかと主張しています。ときの政府、ときのジャーナリズムは西郷を、今では信じられないほどの卑劣な口調で批判しています。そのような逆風のなかで、福澤のみは西郷を懸命に擁護しようとしたのです。
私が持っている西郷のイメージは、近代化を誰よりも強く望む一方、その近代化を推進するリーダーの資質は、旧士族社会の道徳、つまりは士風、士魂の持ち主でなければならない。指導者が士風、士魂をなくしたならば、西洋列強の勢力から日本を守ることができない、我々は西郷の持っていた士風、士魂に注目しなければならないと福澤は論じたのです。その論説が「丁丑公論」です。
西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり。学識に乏しと雖ども粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、如何なる大事変に際するもその挙動綽々然として余裕あるは、人の普く知る所ならずや。(中略)薩の士人は古来質朴率直を旨とし、徳川の太平二百五十余年の久しきも遂に天下一般の弊風に流れず、その精神に一種貴重の元素を有する者と云うべし。(中略)薩に居る者は依然たる薩人にして、西郷、桐野の地位に在るものにても衣食住居の素朴なること豪も旧時に異ならず。
「門閥制度は親の敵で御座る」と言った福澤の主張とは明らかに異質の主張が「丁丑公論」や「痩我慢之説」では書かれているのです。
福澤諭吉という人物の真実はどこにあるのか。我々は左翼リベラリズムが充満する風潮のなかにあって、彼らがつくった福澤諭吉像を正しいものとして受け取っています。しかし、そんなことがあっていいはずはない。
幕末の三十三年と維新後の三十三年を生き、六十六歳で没した福澤が、最後にどのような思想にたどり着いたのかを押さえることが何より重要なことだと私は思うのです。

渡辺利夫(わたなべとしお)氏
昭和十四年、山梨県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、同大学院経済学研究科博士後期課程満期取得退学。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授などを経て拓殖大学国際開発学部学部長、同大学学長および総長を歴任。専門は開発経済学・アジア経済である。日本思想史にも造詣が深い。著作に、『神経症の時代』(文春学塾ライブラリー)、『アジアを救った近代日本史講義』(PHP新書)、『士魂-福澤諭吉の真実』(海竜社)、『決定版脱亜論』(育鵬社)、『死生観の時代』(海竜社)など。
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