東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

『評伝 大野伴睦』丹羽文生著 大野つや子・大野泰正監修(並木書房)日本の政界にも、こんな鷹揚で浪花節的古武士がいた時代があった 「青嵐会」の中川一郎を見出したのも、大野伴睦だった

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大野伴睦と聞いて、たぶん多くの読者は「あぁ、あの岐阜羽島に新幹線を強引に引っ張った大物政治家」と連想するだろう。

田圃の真ん中、不評だった新駅だが、いまでは乗降客夥しく、岐阜羽島駅前にはAPAを始めとしてビジネスホテルが数軒。居酒屋もある。

大野には先見性が備わっていたということだろう。その後、三河安城、掛川、新富士、そして品川と、東海道新幹線だけでも新駅がどっさりと産まれた。

自民党の実力者にして副総裁だった大野伴睦は保守合同をなしとげ、義理と人情の、家庭的で面倒見のよい派閥を営み、敵の少ない政治家だった。

死後、半世紀以上を閲したいま、嘗ての懐かしい政治の想い出とともに歴史的は評価を加えて大野伴睦が甦った。

本書はその評伝に若い政治学者が挑んだ。

さて、大野伴睦と言えば、評者(宮崎)が咄嗟に思い出すのは中川一郎である。

憲法改正のために血判で誓った『青嵐会』の暴れん坊、総裁選にも立候補したが、その後、札幌のホテルで自裁してはて、息子の昭一氏も、安倍晋三とともに保守政治を突っ走ったが、若くして急逝した。

評者がはじめて中川一郎を『見た』のは昭和四十三年か、四十四年ごろに、川内康範氏の何かのパーティ(たぶん氏の五十歳を祝う盛大な祝宴だったとおもう)で、席上「北海道のケネディ」と川内さんが壇上に上げて紹介した。この渾名は定着せず『北海道のヒグマ』がすっかりアメリカの高官にまで知れ渡った。

石原慎太郎氏らと青嵐会を立ち上げたので、すぐに出版企画をおもいつき、何回か氏の事務所や自宅へ通った。午前七時に中落合にあった自宅へ行くと、もう鈴木宗男氏が控えていた。

『青嵐会 血判と憂国の論理』(浪漫)はベストセラーとなった。そこで『青嵐会を励ます会』と提案したおりも、台湾へ議員訪問団のときも、そして同会の国民集会を武道館で行うというので、手伝いに駆けつけ、親密な付き合いが続き、日米安保二十周年記念の日米シンポジウムのおりは、評者がホテルに泊まり込んでの裏方を務めていた。

最終日の夜に、ホテルのバーで、中川一郎氏と呑んでいると、小生の長男誕生の電話。そこで氏の名前をわが長男の名前にいただくことになった。

なぜ、こういう個人的な経緯を書くかと言えば、衆議院議員会館の中川の事務所に特大の大野伴睦の写真が飾られていたからなのだ。

大野が北海道開発庁長官を拝命したときに道庁で『開発担当官』だったのが、中川一郎だった。中川は疾風伝来の勢いで懸案事項を処理していく大野に度肝を抜かされた」(143p)。

「中川は大野を師と仰ぎ、大野の勧めで国政入りをはたす」

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出版社からのコメント


政治家としての父は保守合同をはじめ、数々の大業を成し遂げましたが、唯一、心残りだったのが「日本横断運河」建設でした。父が亡くなったのは一九六四(昭和三九)年五月二九日のことでした。

その前日、病床で私に「お父ちゃんにはまだやらなきゃいけないことがあるんだ。日本横断運河を作りたい。だから寝てなんかいられないんだ」と言っていました。

今となっては荒唐無稽に感じるかもしれません。しかし、それだけスケールの大きい豪快な政治家だったということは、皆様にもお分かりいただけるのではないかと思います。(元参議院議員 大野つや子)

 

著者:丹羽文生(にわ・ふみお) 1979(昭和54)年、石川県生まれ。東海大学大学院政治学研究科博士課程後期単位取得満期退学。博士(安全保障)。拓殖大学海外事情研究所助教、准教授を経て、2020(令和2)年から教授。海外事情研究所附属台湾研究センター長、大学院地方政治行政研究科教授。この間、東北福祉大学、青山学院大学、高崎経済大学等で非常勤講師。岐阜女子大学特別客員教授。

著書に『「日中問題」という「国内問題」:戦後日本外交と中国・台湾』(一藝社)等多数。