東アジア歴史文化研究会のブログ

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう

④事大主義がまねいた朝鮮の悲劇(『日本人が知ってはならない歴史』)

東アジア歴史文化研究会
若狭和朋著『日本人が知ってはならない歴史』(シリーズ全3冊)
4.事大主義がまねいた朝鮮の悲劇


李朝では清国の干渉を逃れるために、密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。1885年(明治17年)1月に甲申事変の後始末のための漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。策謀者はメレンドルフ(清国政府推薦のドイツ人外交顧問)である。メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる第三国にロシアを当てようとしたのである。彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、清国もロシアを「利用」する気持を抱いていた。それは清国へのロシアの圧力を朝鮮経由で日本に充てようという以夷制夷策に出ている。

メレンドルフの提案をスペールは受諾した。ところが、4月18日に天津条約が締結され日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。6月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した。こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである。
1.金玉均がウラジオストックに来れば、ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
2.日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する。
3.外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
4.朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。

外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする別の事大主義が力を得ていた。朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。果然、イギリスが動いた。

1885年(明治18)4月、イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。朝鮮海峡を扼するこの島は、ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。ロシアはイギリスに抗議して、巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。英露交渉は二年間にわたったが、清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った。

この事件は、日本に深刻な影響を残した。朝鮮へのロシアの南下がすぐに列強間の緊張をもたらす現実を日本は直視した。そして、李朝政府がいかに無力であるか、を改めて認識させられたのである。自国の運命が、外国勢力に好きなように左右されるのを見た朝鮮国民のなかに、当然に危機意識を深める国民(志士)が増えた。

しかし、李朝の親露政策は強まる一方であった。1888年(明治21)、露韓陸路通商条約が結ばれ、半島北東部の慶興にロシアの租借地が造られた。ついで、豆満江(現在の北朝鮮とロシアの国境)の航行権を李朝はロシアに与えた。やがてロシアは鴨緑江の航行権を手に入れ、森林の伐採権を手に入れ、河口の港・竜岩浦をポートニコラエスクと改め、軍港工事を進める時点で日露の開戦に至るのだが、十六年後のことである。

福沢諭吉が「脱亜論」を「時事新報」紙上に書いたのは、甲申事変のすぐあとの明治18年3月のことであった。・・・・もともと彼は多くの日本人と同じく、日本・清・朝鮮・三国連衡で国難に対処しようという連衡論者であった。しかし、中華主義から朝鮮支配を変えない清国と、内紛の絶えない朝鮮、しかも表裏常でない朝鮮の外交、加えて迫るロシアの脅威の中で福沢諭吉たちは「脱亜論」に立つにいたった。これは、視点を変えれば、朝鮮の志士たちの心情でもあった。

朝鮮近代化の熱情に燃えた愛国の志士たちは少数ではない。志士と言えば金玉均の名があがるであろうが、彼の墓は東京本郷の真浄寺にある。彼は甲申事変に敗れると、朴泳孝らとともに日本に逃れてきた。身柄引き渡しを朝鮮政府は要求してきたが、日本政府は拒否している。日本での生活費用として日本政府は金玉均に「月給」五十円を支給している。彼は同志の裏切りにより、上海に連れ出され殺される。死体は清国軍艦で朝鮮に運ばれ、六支の刑(頭、手足をバラバラにする極刑)に処せられ朝鮮各地にさらされた。父は死刑、母は自殺、弟は獄死という悲惨な結末で一家は全滅している。・・・・

金玉均たちこそは、歴史の渦のなかで、祖国を清国やロシアの爪牙から守ろうとして志半ばで倒れた志士である。彼たちは朝鮮の安全保障・開化・近代化のために、清国やロシアに対抗するためのパートナーに日本を選んだ政治家である。日清戦争の後大韓帝国が成立したが、ロシア帝国の爪牙に組み敷かれた。そのとき、日露戦争に勝利した日本と組むしかないと理解していたのが、韓国内の強力な世論であった。・・・・

韓国内に日本との連携を考える強力な世論が存在しないまま、韓国は日本から赤子の手をひねるように一方的に併呑されたというのだろうか。今、日韓の歴史はそのように捏造されている。これは形を変えた蔑韓論である。言うまでもないが、これは歴史の事実に反する。歴史を知る日本人は、例えば特攻隊で散った朝鮮出身の若者のことを決して忘れてはいない。