東アジア歴史文化研究会のブログ

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「中国に蹂躙されたチベットの歴史」(ペマ・ギャルポ氏)①独立国家チベットとは

東アジア歴史文化研究会

「中国に蹂躙されたチベットの歴史」

第53回 ペマ・ギャルポ氏(桐蔭横浜大学教授)の講演要旨

①独立国家チベットの歴史
 

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現在、一般にチベット呼ばれている領域は、中国が「チベット自治区」と呼んでいる地域ですが、これは、実はチベットの一部に過ぎません。それは、中国がチベットを武力併合した際に、チベットを分割統治したからです。

 本来のチベットは、ウ・ツアン、カム、アムドの三つの地方(チベット三州)から構成されており、この内のウ・ツアンとカムの一部が「チベット自治区」になり、その他の領域は、それぞれ青海省、四川省、そして雲南省に編入されたのです。

 私の故郷は、カム地方のニャロン(新龍)ですが、現在では四川省になっております。また、所謂「チベット自治区」の面積は、120万平方キロメートルですが、本来のチベット全体では、230万平方キロメートルあるのです。中華人民共和国政府が主張している中国の総面積は、960万平方キロメートルですから、実は、その四分の一近くは、チベットなのです。

 因みに中国が、チベット同様に不当に植民地化している、新疆ウイグル「東トルキスタン」と、内モンゴル「南モンゴル」なども除けば、本来の中国固有の領土は、現在の四割にも満たないのです。更に、チベット人は少数民族とされておりますが、これらチベット三州には、約600万人のチベット人が居住しており、一国家としては決して少ない人口ではありません。中国の13億人と言う数字と比較しての印象から、少数民族と思われているのです。それからチベット人の主食は、ツァンパと言う、日本の「麦焦がし」と同じ物です。

 また、所謂チベット人とは、日常的にチベット語を使用し、チベット仏教を信仰する人々の事を指します。そして1951年に、中華人民共和国の、所謂「人民解放軍」が、チベットを武力侵略するまでは、チベット人は、ラサにあるチベット政府を自分たちの政府だと認識していたのです。それ故に「税」も、ラサにあるチベット政府に納めていたのです。つまり1951年までは、宗主権と言う象徴的な主権は兎も角、中国がチベットを実効支配した事実は、是まで歴 史的にも全く無かったのです。チベットの歴史を振り返れば、チベットが中国の一部では無い事が、明白になります。

 古代インドの文献には、チベットは「ボータ」として出て来ますし、中国の漢代の文献には、羌族、氏族と言う名前で登場します。つまり2000年前からインドと中国の双方が、異民族が住む別の国だと認識していた事が解ると思います。

 7世紀初めには、ソンツェン・ガンポ王がチベット高原を統一して強大な帝国「吐蕃王朝」を築き、当時の中国(唐)と互角に戦いましたが、むしろチベット勢力の方が強く、東方に拡大した為に唐は、王女「文成公主」をチベットの王妃にと、ソンツェン・ガンポ王に差し出したくらいです。

 13世紀に入るとモンゴルは、中国大陸に建国した元朝の影響下にチベットを置きますが、これは「チュ・ユン関係」と呼ばれる、言ってみれば「寺と檀家」の様な関係でした。中国政府はチベットを「元朝時代に中国の一部として併合されて今日に至っている」と主張致しますが、決して元朝に征服された訳ではありません。それは元朝がチベットを直接治めようとした事実も無ければ、チベットが元朝に納税した事が無い事からしても、お解りになると思います。

 明朝時代には、地方豪族が入れ替わり立ち代りチベットを支配致しましたが、1642年、ダライ・ラマ5世の時代に、宗教-政治の両面に渡ってダライ・ラマ法王が最高権力を持つ中央政府(ガンデンポタン)が、ラサに誕生したのです。ガンデンポタンはチベットの正統政府として、現在もインドのダラムサ ラに「チベット亡命政府」として存在しております。

 20世紀に入ると、アヘン戦争や日清戦争に敗れた清朝は国力が衰退して、その影響力は著しく低下致しました。そしてチベットは、南下政策を採る帝政ロシアと、北上を狙う英領インドの間にあって、両国間の緩衝国の役割を果たすようになりました。

 第一次世界大戦後にウイルソン米大統領が提唱したように、20世紀初めには「民族自決権」は国際社会の概念として常識になりました。当然、チベットにおいても、そうした気運が高まりました。それ故、チベットが独自に英国に接近する事を恐れた清朝は、1910年にチベットに侵攻したのです。ところ が、その直後に辛亥革命が起こり、1912年に清朝は滅亡してしまうのです。それまで清朝の支配下にあったチベットとモンゴルは、お互いに独立を宣言して、双方の独立を認め合う「蒙蔵条約」を結びます。

 チベットは独立国家として、蒙蔵条約以外にも、幾つかの条約や協定を結んでおります。その内の一つ、1914年のシムラ条約では、英国は中国の宗主権を認めながらも、チベットの独立を事実上承認しております。この条約は正式に、英国、チベット、中華民国の三者協議と言う形になっていて、条約締結に 際して使用した地図も、英語、チベット語、中国語で書かれております。中国の国民政府は、あくまでチベットに於ける領有権を主張して、最終的には調印しなかったので、条約は英国とチベットの間で結ばれましたが、この条約で定めてある全てに関して、中国は如何なる権利も主張する事が出来ない旨の「共同宣言」を出しております。

 それ以来、1950年に中国の人民解放軍がチベット侵略を再開するまでは、チベットは完全なる主権を持った独立国として、存在していたのです。それは第二次大戦中、中国が日本との戦争に当たり、チベット人に「兵役を課して無い」事からしても、チベットが中国に属していなかった、大きな証拠になると思います。

 次に、日本との交流について幾つか紹介致しますと、明治時代には日本でもチベット周辺地域は「西蔵」として知られておりましたが、秘境と言うイメージであり、国同士の接点はありませんでした。日本人で最初に中央チベットに入国したのが、僧侶で仏教学者の河口慧海と言われております。彼は1901年に、ラサにやって来ました。その体験談を綴った「西蔵旅行記」は、日本で、ベストセラーになっております。その後にチベットを訪れた青木文教、多田等観 らの僧侶たちも、当時のダライ・ラマ法王13世から好待遇を受け、チベット仏教の研究に勤しみました。

 また、「西蔵旅行記」に刺激されてチベットを目指した、元軍人の矢島保治郎と言う人物は、1913年にチベット軍の軍事顧問に迎えられて部隊を訓練し、その軍隊が辛亥革命後に国民党軍を追い出したと、英国の記録にも残っております。矢島保治郎はダライ・ラマ法王13世の信頼も厚く、法王の親衛隊長 的な職も務めました。因みに、現在のチベット国旗をデザインしたのも青木文教、あるいは矢島保治郎だと言われております。

 この様にチベットと日本の関係については、最初は個人的な交流から始まりましたが、日本が中国や英国と対立する様になるにつれてチベットと日本は、国同士としても接近するようになりました。この辺の事情については、現在でも様々な資料が残されております。その後、長らく平和が続いたチベットでしたが、中国内の国共内戦の結果、共産党が国民党を駆逐して台湾に追いやってからは、状況が一変致します。