「自由と民主主義は両立しない」とピーター・ティール ならば自由とは何か、欧米のデモクラシーとは何なんだ(宮崎正弘国際情勢)
「リバタリアンの教育」と題したエッセイをピーター・ ティールがケイトー研究所の機関紙に発表したのは 2009年4月13日付けだった。トランプ登場の7年も前である。
しかし、この論文がトランプ第二次政権におけるDOGEの下敷きとなったと評価される重要な論文であり、のちにベストセラーとなったティールの『ZERO TO ONE』の原点、出発点ともとれる。
論旨はこうだ。
「私は10代の頃からの信念、すなわち真の人間的自由こそが最高の善の前提条件であるという信念を今も持ち続けています。私は没収的な税金、全体主義的な集団主義、そしてあらゆる個人の死は避けられないというイデオロギーに反対します。こうした理由から、私は今もなお自らを「リバタリアン」と呼んでいます。
しかし、過去20年間で、これらの目標をいかに達成するかという問題に関して、私の考えは大きく変化したことを告白しなければなりません。最も重要なのは、自由と民主主義は両立するという考えに、もはや同意できないということです。私の思考の変遷をたどることで、現代の古典的自由主義者が直面する課題のいくつかを整理できるかもしれません。
1980年代後半、スタンフォード大学で哲学を専攻していた私は、当然ながら議論の駆け引きや、政治的な手段を通して自由を実現したいという願望に惹かれてました。
私は学生新聞(註『スタンフォード・レビュー』、2代目編集長がディビッド・サックス=前ホワイトハウスAI&暗合通貨担当補佐官)を創刊し、キャンパスに蔓延する既成概念に挑戦しました。
大学が制定した言論規制を撤廃するなど、いくつかの限定的な勝利を収めましたが、より広い意味では、費やした労力に見合うほどの成果は得られませんでした。まるで第一次世界大戦の西部戦線における塹壕戦のようでした。
今思えば、私たちは主に同じ考えを持つ人々に説教をしていたに過ぎません。もっとも、そのおかげで、その考えを持つ人々が(信念を)生涯歌い続けることを決意するという、重要な副次的効果はあったのですが。
1990年代、マンハッタンで若き弁護士兼トレーダーとして働いていた私は、なぜ多くの人が大学卒業後に幻滅するのかを理解し始めた。世界はあまりにも広大に思えた。宇宙の容赦なさに対して無関心であるより、私の周りの賢明な仲間たちの多くは、小さな庭の手入れに没頭した。
IQが高ければ高いほど、自由市場政治に対する悲観的な見方が強まった。資本主義は、大衆にそれほど人気がないのだ。
最も聡明な保守派の間では、この悲観主義はしばしば豪快な飲酒という形で現れた。対照的に、最も聡明なリバタリアンはアルコールだけでなく、それ以外のものにも逃避した。
2009年に目を向けると、リバタリアン政治の見通しは実に暗い。その典型的な例が、過剰な債務とレバレッジによって引き起こされた金融危機(註 2008年のリーマンショック)だ。
これは、あらゆるモラルハザードに対する保険をかけた政府によって助長されたものであり、この危機への対応策は、さらに債務とレバレッジ、そして政府の介入をさらに拡大することになることは周知の事実だ。
自由市場を主張してきた人々は、嵐に向かって叫んでいるようなものだ。ここ数ヶ月の出来事は、政治に関心のあるリバタリアンの残された希望を打ち砕いた。
2009年にリバタリアンである私たちにとっての教訓は、社会全体の教育が無駄な努力に終わったという認識で最高潮に達したと言えるだろう。
悲観的に言えば、この傾向は長い間、間違った方向に向かっている。
▼創造的破壊につながる可能性はあったが。。。
金融の話に戻ると、大規模な政府介入を招かなかった米国最後の経済不況は、1920年から21年にかけての崩壊だった。それは急激ではあったが短期間で、シュンペーター的な「創造的破壊」を伴い、真の好景気につながる可能性があった。
その後の10年間、つまり狂騒の1920年代は非常に好景気だったため、歴史家たちはその始まりとなった不況を忘れてしまった。1920年代は、アメリカの歴史において、政治について真に楽観的になれた最後の10年間だった。
1920年以降、福祉受給者の大幅な増加と女性への参政権の拡大(リバタリアンにとって非常に厄介な2つの支持層)により、「資本主義的民主主義」という概念は矛盾するようになった。
こうした現実を前にして、視野を政治の世界だけに限定すれば、人は絶望に陥るだろう。しかし、私は絶望しない。
なぜなら、もはや政治が世界のあらゆる未来を包含するとは考えていないからだ。
現代において、リバタリアンにとっての大きな課題は、全体主義や原理主義の惨禍から、いわゆる「社会民主主義」を導く無思慮な民衆に至るまで、あらゆる形態の政治から逃れる道を見出すことである。
そこで重要な問題は、政治ではなく、政治を超えた手段でいかに脱出するかという点になります。私たちの世界にはもはや真に自由な場所は残っていない。脱出の方法は、私たちを未知の国へと導く、これまで試みられたことのない何らかの新しいプロセスを伴うに違いないと私は考えています。
そのため、私は自由のための新たな空間を創造する可能性のある新技術に力を注いできました。
そのような技術的フロンティアのうち、3つについて簡単に述べたいと思います。
▼活気的な発明はなかった
1)サイバースペース。起業家および投資家として、私はインターネットに力を注いできました。1990年代後半、PayPal(註 当初はイーロン・マスクも共同創設者だった)の創業理念は、あらゆる政府による統制や希釈から解放された新しい世界通貨の創設、いわば通貨主権の終焉を中心としていました。
2000年代には、Facebookのような企業が、新たな異議申し立ての方法や、歴史的な国民国家に縛られないコミュニティを形成する新たな方法のための空間を作り出しました。起業家は、インターネットビジネスを始めることで、新しい世界を創造できるかもしれません。インターネットへの期待は、こうした新しい世界が既存の社会秩序や政治秩序に影響を与え、変化をもたらすことです。
インターネットの限界は、こうした新しい世界が仮想空間であり、そこからの脱出は現実よりも想像上のものに過ぎない可能性があるということです。今後何年も解決されないであろう未解決の問題は、インターネットに関するこれらの説明のうち、どれが真実であるかということです。
2)宇宙空間。広大な宇宙空間は無限のフロンティアであるため、世界政治からの無限の逃避の可能性をも秘めている。しかし、この最後のフロンティアにも依然として参入障壁が存在する。
ロケット技術は1960年代以降、わずかな進歩しか遂げておらず、宇宙空間は依然としてほとんど到達不可能なほど遠い存在である。
宇宙の商業化に向けた努力を倍加する必要があるが、同時に、それに伴う時間的見通しについても現実的でなければならない。ハインラインのような古典的SFに描かれる自由主義的な未来は、21世紀後半まで実現しないだろう。
3)海上居住。サイバースペースと宇宙空間の間には、海洋に定住する可能性が存在する。私にとって、人々がそこに住むかどうか(答え:十分な数の人々が住むだろう)という疑問は、海上居住技術が間近に迫っているかどうかという疑問に比べれば二次的なものだ。
私の見解では、関連する技術はインターネットよりも暫定的ではあるが、宇宙旅行よりははるかに現実的である。経済的に実現可能な段階に達したか、あるいは間もなく実現可能になる段階に達したのかもしれない。これは現実的なリスクであり、だからこそ私はこの構想を熱心に支持する。
テクノロジーの未来はあらかじめ決まっているわけではなく、私たちは“テクノロジー・ユートピア主義”の誘惑に抵抗しなければならない。テクノロジーには独自の勢いや意志があり、より自由な未来を保証してくれる、したがって、この世界の政治の恐ろしい軌跡を無視できる、という考え方に抵抗しなければならないのだ。
より適切な比喩は、政治とテクノロジーの熾烈な競争が展開されている現実だろう。未来ははるかに良くなるか、はるかに悪くなるかのどちらかだが、未来の行方は依然として非常に不透明だ。この競争がどれほど熾烈なのかは正確には分からないが、私は非常に接戦になるだろうと推測している。
政治の世界とは異なり、テクノロジーの世界では、個人の選択が依然として極めて重要となる可能性がある。世界の運命は、資本主義にとって安全な世界を築く自由の仕組みを構築、あるいは普及させる一人の人間の努力にかかっているのかもしれない」(引用止め)
▼ピーター・ティールは“影の大統領”といわれたこともあった
この論文発表に前後してティールはフェイスブック(現在メタ)のザッカーバーグと知り合い、最初の投資家となった。その後、同社株を売却し10億ドルを手にした。
これは、パランティア成立から五年後であり、さらには初期のオープンAI、そしてディープマインドのハサビスともチェスを通じて知り合い投資した(詳細は拙著『テクノリバタリアンの野望』、ワック参照)。
その後、トランプ選対に巨額献金し、カマラ・ハリスに大勝すると、政権引き継ぎチームを率いた。
2024年選挙では嘗ての部下だったJDバンス上院議員をトランプ長男と女婿のクシュナーを通じて売り込み、副大統領候補に押し上げた。
一時期は『影の大統領』とまで言われたが、最近のピーター・ティールは講演旅行に忙しく、ローマ法王とは対立し、さらにはトランプ大統領と距離を置き始めている。
かれの言う「自由」とはリバタリアン的な、無政府主義的傾向の強い自由であり、彼のいう「民主主義」は、おそらく欧米の歴史に密着したリベラリズム的な、フランス革命的なデモクラシーを含み、日本の政治や歴史にはあてはまらないのではないか。
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